日本絵画の星-49 (近代編) 13
今村紫紅(いまむらしこう)
(1880-1916/明治13~大正5)
神奈川県横浜市出身の日本画家、本名は寿三郎。35歳で夭折。
大胆で独創的な作品は画壇に新鮮な刺激を与え、後進の画家たちに大きな影響を与えた。
今村紫紅は明治の日本画の横山大観、菱田春草らの改革が一段落した明治40年代、
日本画の新しい方向性を探していた。
その言葉から
「日本画がこんなに固まってしまったんでは仕方ありゃあしない。
とにかく破壊するんだ。出来上がってしまったものは、
どうしても一度打ち壊さなくちゃ駄目だ。そうすると誰かが又建設するだろう。
僕は壊すから君達、建設してくれ給え。」
と後進の画家たちに常々語っていたらしい。
はは、岡本太郎と同じこと言ってたんですね。
「徳川以降の絵はひどく堕落している。何と言っても建設より破壊が先だ。」
「暢気に描け。芸術に理窟はいらない。何事にも拘束されず、自由に、快活に自己の絵を描け」
と仲間たちに語っていた。
日本画の因習を壊そうとし、主題、構図、彩色など絵画の全ての面で
自由な創意による新しい日本画への改革こそ、
紫江の生涯をかけた命題であった。
と言っても今見ると、何が破壊的なのかはわかりません、
穏やかに描かれているからです。
革新的なことってその当時にしか、その新しさは分りにくいものです。
昔は革新的であってもいまでは普通な表現だったりするからです。
色んな文献を読んでいると
まぁ、日本の下手ウマの第一人者という位置づけのようです。
一番の代表作は「熱国の巻」1914です。
充分に繊細な表現です。
紫江は常々その芸術的革新性と、若手の親分格としての豪放な性格から、将来を大いに期待されたが、
墓石は安田靫彦が考案し、施主は原三渓が務めた。
紫江の人柄について、
安田靫彦は「君は極めて意志の強い人であった。実によい頭脳をもって居た人であった。
あの燃える様な感情を持って居ながら、一方に常に緻密な頭脳で平静な判断や内省を行って居た。」
といい、速水御舟は
「氏は敵とも未方ともならないやうな人は嫌いであった。又なかなか情に厚い人で、且つ道徳的の人であった」
と記している。