日本絵画の星-50 (近代編) 14
土田麦僊(つちだばくせん)
(1887-1936/明治20~昭和11)
土田麦僊の絵を知っていますか?
え〜〜〜、え〜、名前は何となく聞いたことあるけれど、、
作品は〜〜
う〜〜ん、思い浮かばないです、という人が多いのではないでしょうかね。
でも、これは知ってますよね。
この絵で特徴的なのは、艶やかな着物と
気弱そうで、不安げな表情の若い舞妓の顔ですが、、
この時代にあって最も際立った個性は、背景の庭園らしき風景の描き方でしょうね。
無理に丸い形に、それこそ丸め込んでいます。
上の1/3に丸い形
下の1/3に椅子の四角。
そして真ん中の1/3は三角
はは、上から丸・三角・四角の構図を意識しているようです。
日本画というのは流れるような、とろけていくような、
ぼけて流動的な、構図らしきものが重んじられますが、
この絵はあえて、そうした曖昧な空間ではなく
しっかりと幾何学的に構図を作っています。
一言で言ってしまえば、西洋的構図を日本画に取り入れてるんですね。
土田麦僊は明治20年(1887年)、新潟県佐渡島の農家の三男として生まれる。本名は金二。
明治37年(1904年)に竹内栖鳳に弟子入り。
明治44年(1911年)、京都市立絵画専門学校(現:京都市立芸術大学)を卒業している。
同年には小野竹喬らとともに前衛的な絵画運動の会である仮面会(ル・マスク)を結成。
黒猫会に参加。文展には在学中の明治41年(1908年)から出品していた。
その頃の文展への出品作
あっ、新しいですね。
描かれているのは明治時代の小学生が廊下に立たされて、反省している画ですが、
とっても新鮮な感覚で描かれています。
子供を描いたから気持ちもそうなったのですかね、、
イラスト的にも、いい感じです。
「海女」1908年
土田も当時の西洋の絵の潮流に敏感であったようで、
この頃の作品にゴーギャンの影響が見られるようです。
日本画は元々平面性の強い絵ですが、
日本絵画の影響を受けたゴーギャンによって逆輸入された平面性に立ち返ることになります。
(それも極端にですね、、、、)
そして数々の代表作が生まれます。
あ〜〜、今から大体100年前の絵をなりますね。
とってもとってもまったりとした世界観でいいですね。
日曜の午後に郊外の旅館の銭湯にいって、ビール(あるいはミルク牛乳など)飲んで、
湯ざましするみたいな、、
ほっ、
こんなゆったりとした絵ですが
土田麦僊の頭の中は
絵画的な冒険心で一杯だったようです。
大正7年(1918年)、麦僊は同じ京都市立絵画専門学校出身の同士であった
村上華岳、榊原紫峰、小野竹喬、野長瀬晩花とともに国画創作協会を旗揚げした。
同会は、伝統的な文展の審査のありかたに不満をもった若手日本画家たちが
西洋美術と東洋美術の融合と新しい日本画の創造を目指して結成したもので、
近代における日本画革新運動の代表的なものとして日本美術史上重視されているそうです。
同会は大正7年(1918年)の第1回展を皮切りに、
昭和3年(1928年)までに東京および京都で計7回の展覧会を開催したが
麦僊は第1回展に出品した『湯女図』(ゆなず)をはじめとして毎回意欲作を出品し、
国画創作協会の中心的存在であった。
緑と赤の配色が素晴らしいですね。それに土の黄土色も、、
白い花々がこの親子を祝福いています。
全体図は↓
大正10年(1921年)、麦僊は竹喬、晩花とともに渡欧。
約1年半に亘り、西洋絵画の研究と制作を行っている。
そしてまた代表作が生まれます。
出稼ぎで働く大原女たちの、ちょっとした休憩の場面でしょうか、、
日本画に新しい革新をという精神を大いにもっていたであろうに
描かれた絵には、そういったぎらぎらしたところをまったく感じさせないところが
ニクいです。
今回は土田麦僊から、
とっても柔軟な精神の在り方を学びました。