心で思うこと

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一昨日の夕焼け


君という存在は、過去に「何を考えたか」によって、
その考えたり感じたりした内容が、ひとつひとつ心に蓄積されミックスされた結果の
つぎはぎとして、今、ここに立っている。

すなわち君とは、これまで君が心で思ったことの集合体。

君がイヤなことを思うなら、少しだけイヤな業(カルマ)のエネルギーが
心に刻まれ、その分イヤな君に変化する。

君が優しいことを思うなら、少しだけポジティブな業のエレルギーが
心に刻まれ、そのぶん温かい君に変化する。

こうして人間は、心で思ったとおりのものへと少しずつ変化してゆく。
すべては心が思うことから生まれ、
すべては心が思うことによって創られる。

ゆえに
ネガティブな心によってイヤな話をしたり、
ネガティブな行動をしてりするならば、
必ずや苦しみ(ストレス)自分についてくるだろ。

優しくポジティブな心で話したり行動するならば、
必ず安らぎが自分についてくる。

そう影が君の歩く後ろから必ずついてくるかのごとく。


法句経1、2
超訳「ブッダの言葉」




はは、まだまだネガティブな心で思う自分が居るなぁ〜〜





喝!


by hamaremix | 2018-12-11 21:58 | 哲学 | Comments(0)

人生の経験と追憶

とっても美しい言葉。


「一行の詩のためには、あまたの都市や、
人間や、事物をみなければならぬ。
あまたの動物を知らねばならぬし、
空飛ぶ鳥がいかに飛ぶか、
朝小さな花がどんな身振りで開くかを感じなければならぬ。

未知の国の道々や、期待していなかった出会いや、
ずっと前からそれがくるのがわかっていた別離を
詩人は思いかえすことができなければならない。

ーーーまだその意味がつかめづにいる少年時代の日々、
喜ばそうとして何かをくれたのに、それを手にしなかったために、そのこころを痛めさせた
両親のこと(他の子供だったら、きっと喜びを感じたことだったろう。)

多くの深い重大な病状の変化をみせる少年期の病気。
一室に静かに引き籠っていた日々。
海辺の朝。海そのもの。いろいろな海。
空の星とともに飛び去った高地の旅の夜。

これらのことを詩人は思いださなければならない。
いや、ただすべてを思いだすだけでは不十分である。

一夜一夜が前の夜と異なる愛の夜の記憶。
産婦の叫びの記憶。白衣のなかにぐったりと眠る産後の女の記憶。

詩人はまた死にゆく人の傍にいたことがなければならないし、
開いた窓がかたことと鳴る部屋での通夜もしたことがなければならない。

しかもこうゆう記憶をもっていることで充分ではない。
追憶が多かったら、これを忘れることができなければならない。
そしてそうゆう追憶が再び帰ってくるまで待つ大きな忍耐力をもたねばならない。
追憶はいまだほんとうの追憶になっていないからだ。

追憶がわれわれの身体のなかの血となり、眼差しとなり、表情となり、
名前のないわれら自身と区別のつかないものとなるまでは、、、

そして、その時に、
いとも稀なる時刻に、ひとつの詩の最初の言葉が、
それら追憶のまんなかに浮き上がり、
追憶そのものから進み出て来るのだ。」


『マルテの手記』リルケ



「ある絵の伝記」のベン・シャーンの引用から




by hamaremix | 2018-11-19 22:29 | 哲学 | Comments(0)

自分を大切にしてはいけない!?

私の絵の「こころの師匠」は岡本太郎です。

わたしはこれまで、いろんな人の影響を受けているはずですが、
中でも最も自分で影響力高いな、と思うのが
岡本太郎でした。

決して会ったこともなく、
万博で見た太陽の塔がきっかけで読んだ
彼の芸術論「今日の芸術」
が私の心を震わせました。


で、思いだしたのがこれ。
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爆・発・語・録

太陽の塔展の入場の際にもらったものです。


中はいろいろあったと思うのですが、
私のはこれでした。


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太郎からのメッセージは「己と闘え!」
「自分を大切にするな」でした。


しかし、難しいですね、この言葉。


しばらく考えねば、、、


と思っているところです。



岡本太郎の言葉は分かりやすく、
細かいことくよくよ考えず、前へ進めーという、
勢いをつけてくれるのですが、
時に難解だったりします。





by hamaremix | 2018-10-05 00:07 | 哲学 | Comments(0)

理想のこころ、ここにあります。

スポーツジムの「コナミ」。

梅田にある「コナミ」は阪急電車の終着駅「梅田駅」の横にあるビル「DDハウス」の中
丁度、電車の中から目線に入る階にあります。

その「梅田コナミ」の窓に
電車の乗客に向けてのコピー(文字)が貼ってありました。


「理想の身体、ここにあります!」

NO贅肉、NO脂肪、NOたるみを訴えてるんでしょうね。
コナミに来れば、理想の身体になれるって!

でも、私ぐらいの歳になると、
もう、いいんです、よね。

贅肉、、、、、
脂肪、、、、
たるみ、、、


で、私は思いました。

「理想のこころ、ここにあります。」

なら、かなり興味津々と、
それはどうゆうことだ!!って
行きたくなるに違いないって思いました。



「理想のこころ」
それはどうゆうかたちでしょうか?

どうゆうこころの状態をいうのでしょうか?


自分中心でないこころ?
怒りっぽくないこころ?
穏やかであればいいのか?

人に優しいこころ、
それはどうゆうこころ?



コナミのそのコピーを見てから、
2ヶ月は経つのですが、、

ずーーっとそのことが気になっています。


理想のこころとは?!



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by hamaremix | 2018-07-11 20:10 | 哲学 | Comments(0)

alone ★

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pinterest 「お気に入り」より



私たちはまったくもって独りです。


自分にふりかかってくることは、

結局は自分ひとりのちからでふりはらうしかありません。

手助けしてくれたりする人はいても、

最後は自分のちからでふりはらうしかないのです。


生まれてくるのもひとり、

死ぬのもひとりで、、、

いきます。


なので

自分の人生は自分しか歩むことができません。

代役などいないのです。




でも、

ひとりでも、

自分を見守ってくれる人や、

自分の見方になってくれる存在もあるはずです。




今、

この世界に居なくても、

自分を

見守ってくれている方は

きっといるはず。



だと、



今日は強く感じ足し、思うことができました。








みんな、ひとりですが、ひとりではないのです。



by hamaremix | 2017-07-09 20:20 | 哲学 | Comments(0)

フォーカス

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Pinterest 「新しい視覚」より



突然ですが、




ものをみる視点って、いくつも設定できます。

簡単なところでは、ソフト・フォーカスとハード・フォーカスです。

それはたとえば
デッサンする時の
描き始めはものを大きく捉えて見るというのがソフト・フォーカスで、
そこにあるののを細部を見ないで、
全体のカタチ(存在)を見るということです。

風景を見る時であるなら、
焦点を定めず、眼に入る視野の全体を意識してみることになります。

そのソフト・フォーカスでものを見ている時には
自分の存在も感じて見るような感覚になります。



逆にハード・フォーカスは
デッサンではものの表面や細部の構造などを
焦点をしっかり定めて見ることです。

対象のものを「観察する」という態度になりますね。
それはよく「知る」という認識にいたる行為だと思います。

風景を見るときなら、一本一本の樹の存在、
屋根の瓦の並び、影のかたちなど、
普通は見ないであろう、「積極的に見る」といったことでしょうか。


絵を描く時はそのソフト・フォーカスとハード・フォーカスを
頻繁にきりかえてものを見ています。
そうしないと絵は描けないです。





絵や写真に限らず、
生活においても、ソフト.フォーカスとハード・フォーカスのきりかえは必要だな〜って思います。

今、目の前で自分に起こっていること、流れている時間を
しっかり見る(ハード・フォーカス)ことはもちろん大切ですが、

ちょっと、視点きりかえて、大きな視野で自分を含めて
今自分に起こっていることは、どうゆうことだろうかと
ソフト・フォーカスで見ることも忘れない方がいいです。

ハード・フォーカスだけで見ていては
ものごとが窮屈に見えてしまいます。
多くの悩みはこのあたりからくるのではないかな。

自分が窮屈になって、大きな視野(ソフト・フォーカス)が持てない時は
他の人から、アドバイスを受けて
自分のおかれている状態をソフト・フォーカスで見たようになれると思います。





複数の視点、「複眼の視点」が大事です。


by hamaremix | 2017-06-22 10:42 | 哲学 | Comments(0)

美意玉

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「ブルー・マウンテン」

死んだあと人間はいったいどこに行くか、という問題があります。

神道的な万葉人的な考え方からすれば、

落ちつくところは山頂です。

死後、山頂あたりに漂っている霊が、時がたつと

そこに鎮まってご先祖様になり、やがて神になるのです。

さらに時がたつと、

その神が一年のうち一定の期間を限って山から里におりてくる。

そこで降りてきた神様を里人たちがお祭りをする。

それが正月でした。


祭りが終われば、神はまた山に帰っていかれるわけです。


「日本のこころ、日本人のこころ」山折哲雄



これはあくまでも神道的、また万葉人が思っていた死者の存在の感覚だそうですが、

山からかけ離れた都会に住んでいる、われわれには

馴染みにくいのですが、

お正月やお盆、お彼岸には、
この世界の何処からかやってきてくれる感覚は受け入れているんではないでしょうか。

どこからかと言った場合、やはりどこか高いところだと思うのですが、

やはり日本列島内じゃないかなぁとは思います。


そうすると、近くではないにしても

この列島を覆う森林の何処か、、、

と思うのは自然なことのように思います。



浄土真宗では、阿弥陀仏に導かれて浄土に行ったということになり、
死んだ人(霊)などこのあたりには居ないはずなんですが、、、、笑



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万葉人的な考えというのは次のとおりです。

『万葉集』には多くの「挽歌」が収められています。
「挽」は「柩をつぐ」という意味で、つまり挽歌は死者を悼む歌です。
(〜中略〜)
それら挽歌を読んでいくと、ほとんどの挽歌の背景に共通の観念もしくは信仰があることに気づきます。

すなわち、「死んだ人間の魂は必ず高いところへいく」

というものがあります。高いところの代表といえば山ですが、

前述のように、日本列島はどこに行っても山があります。

その山を取り巻いている雲や霧に死者の魂がのぼっていく、

といった歌が圧倒的に多いのです。


その例として

青旗の木幡(こはた)のうえをかよふとは 目には見れども直に逢わぬはかも
(倭姫王/やまとひめのおおきみ)

  [山科の木幡の山の上をあの方の御霊が行き来しているのは、ありありと見えるのに、
   もはやじかにお逢いできないことだ]


隠口(こもくり)の泊瀬の山の山の間に いさよう雲は妹にかもあるらむ
(柿本人麻呂)
  [泊瀬のやまの稜線あたりに漂っている雲は、亡きあの方なのであろうか ]



「日本のこころ、日本人のこころ」山折哲雄






なぜ、このようなことに興味があるのかというと、

私は「人間が死んだら無に帰す」という考え方が好きじゃないからです。


神道的な「霊魂や魂が死んだ後も残る」といった考え方や

仏教的な「浄土に向う」という考え方に共感を覚えているからだと思います。

それを信じているか?と問われると、

信じているとまでは言えませんが、

これまで日本人が持ってきた信仰に追従したいということだと思います。



だから、日本人が死についてどう考えてきたかに

興味があり、また知りたいのです。



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「微意玉」

by hamaremix | 2017-01-06 10:26 | 哲学 | Comments(0)

犬は寿命を知ってる?

命あるものは必ず死ぬ。
人間もいつか必ず死ぬ。

って人間なら誰でも当たり前に知っていること。

「限りある命、悔いのないように生きよう。」

って誰でも考えますよね。


人はいつか死ぬ。お迎えがくる。

なので、生きてる間にあせって何かをなそうとします。

若い時は命は永遠にあるようなイメージで生きてますが、

歳をいくと、死がどんどん大きくなってきます。



でも、動物はどうなんでしょう?


たとえば犬。

犬は自分が死ぬって分ってるのでしょうか?




多分、分ってないです。

自分より大きな犬が近づいてきた時に、本能的に身の危険を感じるとは思いますが、

寿命によって犬は死ぬんだ、ということは分ってないでしょう。



日々「死」をイメージすることはないと思えます。




同じように猫、鹿、猿、豚、鳶、鷹などの

動物は寿命を思うことがない。


だから、あんなにのんびりと、余裕を持って、
日々、何もなくても、退屈することなく、あきることもありません。

それは人間にはなかなかできないというか、無理なことではないでしょうか。

欲というものが、ないということでしょうか。

そりゃ、もちろん食欲と性欲はありますが、
これは外せません。

人間の欲は食欲も性欲もあって、それ以外にもたくさん沢山欲がありますよね。


仏教の根本的な考え方に、
「欲を棄てること」というのがありますが、

それは普通できることではありません。
修行に修行を重ねた、ある一定の人しか欲は棄てれません。


そう考えると、動物は人間よりもどうどうとしているし、
歳をとってもあせることもなく、
ゆうゆうと生きていると言えますね〜〜〜。



戦国時代の、忍者の理想的なこころのありように「流水」ということがあります。

これは忍者が仕事をする時に邪念が入っては、しくじったりして、ことを成す時に

迷いや雑念が入って失敗するので072.gif、過去にこだわらない、過去は絶えず

過去として忘れ、流してしまうという考え方です。



素晴らしいですね〜。


死のことは忘れてしまって、余裕もって生きたいものです。







無理でしょうね。笑







ではでは053.gif053.gifまた。

by hamaremix | 2016-10-06 23:09 | 哲学 | Comments(0)

行為の価値

超訳「ニーチェの言葉」
これがあれば、他にどんな啓発本ももう要りませんよ。
笑、ホント。


123 勝手に行為の大小を決めつけない

「人間とは不思議なもので、勝手に行為に大小をつける。
大きなことをした、とか、小さなことしかできなかった、などと決めつける。

もっと不思議なことがある。人間は、自分がしなかった行為を悔いる。
しなかった行為なのに、あれは大きなことだったと本気で思い、
悔やんだりする。また、自分のした行為、自分のしなかった行為の大小を、
自分が決定できると思い込んでいる。
その大小が真実だとさえ思っている。

自分のした小さな行為が、実はある他人にとっては大きいことかもしれない。
その反対かもしれない。
いずれにしても、過去の行為を価値づけることは無意味なことなのだ。」

『悦ばしき知識』



よくあります。
なんか価値のあることをしたいとつい思ってしまいますよね。
私の場合、絵に対してがそうです。
このテーマは大きいぞ〜、とかまぁ軽い感じで描いたとして小さく見てるとか、

自分のなかで、まあまあかななんて思っている作品でも、
凄くいいと言ってもらったりすることがあります。
また頑張っていいのが出来たなぁなんて思っても、
他者からみたら、あんまり良くなかったりすることがあります、、、、




むむむ、あまり適切なコメントではありませんでした、、、、

物事の価値の大小を考えず、その時その時、自分のやるべきことに、
一所懸命であれ!ってことですよね。

それ大事ですよね、、

何処かで手を抜いてると、
他で手を抜いてはいけないところでも、
抜いてしまってるみたいなことになるような気がします。

by hamaremix | 2016-02-22 21:22 | 哲学 | Comments(0)

中道

生きることが苦悩である(苦諦)とは、
“思い通りにならない”ということです。

そこで、苦悩が生起するメカニズムヲ知り、
苦悩を解体するための実践道を説きます。

その実践道(道諦)は<八正道>として表現されます。

その八つの正しい道程とは、

「正見(正しいものの見方)」
「正思(正しい思考)」
「正語(正しい言葉)」
「正業(正しい行い)」
「正命(正しい生活様式)」
「正精進(正しい努力)」
「正念(正しい記憶)」
「正定(正しい瞑想)」

だそうです。

では、ブッダが考えた「正しさ」とは一体どのようなものだったのでしょうか?
1、妄見(自分の都合によって認識がゆがめられる。)から離れる。

2、転倒(きちんとしたメカニズムを理解しない)を離れる。

3、「極端を離れる」

このような姿勢を「正しい」と考えたようです。

つまり、八正道の「正しい」というのは、偏りのないことを指します。

これが<中道>ですね。
<中道>のなかでも特に苦楽中道といわれるところです。
「ひとつのことにこだわって、もうひとつをおろそかにしてはならない」、
これが<中道>です。

「いきなりはじめる仏教生活」釈徹宗



長い引用でしたが、

苦悩が生起するうんぬんより、人間として

ちゃんとしたいという内容の話でした。

by hamaremix | 2015-06-02 22:54 | 哲学 | Comments(0)