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浜本隆司ブログ オーロラ・ドライブ

hammererix.exblog.jp

浜本隆司のブログ

カテゴリ:日本絵画の星(近代編)( 14 )

そうそう、上村松園は1948年(昭和23年)
女性として初めて文化勲章を受章しています。


あと有名なエピソードとして

子の上村松篁、孫の上村淳之と三代続く日本画家の家系をつくったということです。



さて、前回途中になりましたが

問題作「花がたみ」のことです。


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「花がたみ」1915年



さて、この絵のどこが問題(作)なのかって?


この絵を見ただけでは分らないと思います。

それまでの松園その後の松園の絵

つまり松園の描く象徴的な日本女性の美と

この絵が醸し出す雰囲気がかなり違ったものだと感じられるし、

主にこの女性の佇まいと顔の表情にただならぬ特徴があります。


この「花がたみ」は謡曲の花筐』が題材です。

その内容は継体天皇の皇子時代に寵を受けた照日の前

形見の花筐を手に都に上り、紅葉狩りに行き逢った帝の前で舞うという内容です。


松園は能面「十寸髪」(ますがみ)を狂女の顔の参考にしたという。


しかも京都の某精神病院に数日間滞在し、実際に精神を病んだ方々を

丹念に観察したということなのです。


狂人

と言う言い方は今では差別的として使われませんが、

この絵の実現のために精神病患者を

取材したのです。


その時の回想、

「碁の好きな狂人同志、将棋の好きな狂人同志が、それを戦っている。

その姿を離れたところで眺めていると、実に堂々たるものである。

天晴れの棋士ぶりだが、そばに寄って覗き込んでみると、

王将が斜めに飛んで敵の飛車を奪ったり、桂馬が敵駒を三つも四つも越えて

敵地深く飛び入って、敵の王将を殺して平気である。

王将が殺されても、彼らの将棋は終らないのである。

見ていると、実に無軌道な約束を破った将棋なのであるが、

彼らには、その将棋に泉の如き感興があとからあとからと湧くのを覚えるらしい。

朝から晩――いや、そのあくる日もまたあくる日も、

何やらわけのわからない駒を入り乱れさして、それでいて飽くところを知らないのである。

如何にも面白そうであった。」


さらに


狂人の顔は能面に近い。

狂人は表情にとぼしい故ででもあろうか、その顔は能面を見ている感じである。

嬉しい時も、かなしい時も、怒ったときも大して表情は変らないようである。


狂人の眸には不思議な光があって、その視点がいつも空虚に向けられているという

ことが特徴であるようだが、その視線は、やはり、普通の人と同様に、

物を言う相手に向けられている――すくなくとも、

狂人自身には対者に向けている視線なのであるが、相手方から見れば、

その視線は横へ外れていて空虚に向けられている如く感じるのである。




作品にリアリティ(迫真感)

をもたらすために、やはり実際のものを生で見るということが大切です。


そこでたとえスケッチ等しなくても「見た」という実感が重要なのです。



「一点の卑俗なところもなく、清澄な感じのする香高い珠玉のような絵」

「真・善・美の極致に達した本格的な美人画」

(松園のことば)

を大切にした上村でしたが、


人のもつ陰の部分にも関わらずにはいられなかったのでしょうね。



やはり、単なる「美人」を描く絵描きではなく、

本物の絵描きだったと思えます。










by hamaremix | 2019-03-26 19:28 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)
光源氏の正妻、葵の上(あおいのうえ)に源氏の恋人、
六条御息所(ろくじょうみやしんどころ)の
生霊が取り憑くという謡曲「葵上」をテーマとした。

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「焔」1918


描いたのは上村松園


日本絵画の星-48 (近代編) 12

上村松園 

(1875-1949)


この絵は松園言うところの「数多くある絵のうち、たった一枚の凄艶な絵」となる。


誇り高い六条御息所は、光源氏の正妻葵の上への屈辱と嫉妬から生霊になり、

葵の上を取り殺してしまう。

後れ毛を噛む女の着物には藤の花と蜘蛛の巣が描かれている。


上村松園といえば格調の高い日本女性の美を追求した画家でした、

なので、この幽霊のような葵の上の表現は

異色といえるようですが、

今の時代には合ってる(共感できるような内容)と思う。


松園

「どうしてこのような凄艶な絵を描いたか私自身あとで不思議の思った」


と言うのですから、

これを描いたときのこころの状態がやはり普通の状態ではなかったのかもしれません。


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あっ、上村松園は女性です。

日本美術史のなかで最初に登場した女性ではないだろうか。

北斎の娘が昨今有名になってきましたが、

上村松園以前の女性画家は居たのでしょうが、レキシに名前はあがってない。(はずですが)


上村松園がその才能が認められるまで

日本画壇は男性中心(オンリー)だったこともあり、

また当時の男尊女卑の時代背景をかんがみても

女性であることで相当差別されていたと思われます。


しかし、その圧倒的な画力と表現力で、男どもを

唸らせるにいったと思うのですが、

それでも嫉妬や羨みなどもかなりあったらしい。


実際に展覧会会期中の作品の顔に落書きされたこともあったという。

(松園はそのまま展示を続けさせた)

ひどい話です。





松園は四条通御幸町の葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれている。


松園は誕生2か月前に父を亡くしている。

母仲子は女手一つで松園と姉、二人の娘を育て上げた。

明治の女性が画家を志すなど、世間で認めるところではなかったが、

仲子は常に松園を理解し励まし支え続けた。


松園はその著書『青眉抄』で母を追憶して

「私は母のおかげで、生活の苦労を感じずに絵を生命とも杖ともして、

それと闘えたのであった。私を生んだ母は、私の芸術までも生んでくれたのである」

と述べている。


母を亡くした後には、「母子」「青眉」「夕暮」「晩秋」など

母を追慕する格調高い作品を描いています。



上村松園は幼い頃から絵が上手く、その母の理解もあり、

画塾に通いますが、もっと本格的に学んだ方がいいと

鈴木松年(すずきしょうねん)に師事し、

13歳で早くも後素如雲社(ごぞじょうんしゃ)展に「美婦人図」を出品し

翌年には第三回内国勧業博覧会で一等を受賞し

「天才少女」とマスコミで一躍注目を浴びた。


のち竹内栖鳳に師事。

そして以後の女性が見つめる女性の心理と真理を表現し

日本を代表する画家として活躍した。



「画家として注目を浴びる一方で、

妻子ある松年の子を生むなど、当時の画壇にスキャンダラスな話題も提供した。

この波乱の生涯は宮尾登美子が小説「序の舞」に書いた。

映画にもなった。」(「日本絵画の楽しみ方」)



その小説のタイトルになった

「序の舞」

上村松園の最高傑作。

切手にもなったし、ゆくゆくは国宝になるだろう作品。

最初の「焔」もそうなるでしょう。


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「序の舞」1936


松園61歳の時の作品。


自身も「私の理想の女性の最高のもの」が描けたとしている。




しかし、もはやこうした女性美を理想とする女性も少なくなったでしょうが、

戦前までの、和の美の最高峰として日本人の宝となったのです。



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「春のよそをひ」1936


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「待月」1926


日本女性の美を、江戸時代の浮世絵からの様式を踏襲しつつ、

肉筆でさらに格調高いものに昇華させました。





さて、上村松園にもうひとつ衝撃作品があります。


「花がたみ」





長くなったので、その作品については次回に、、、







今日は再々延期になっていた野外スケッチあります。やっとです、

晴れました、よかったです。

HAT神戸にまいります。






by hamaremix | 2019-03-24 08:18 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)


「遠近法は絵画の面白味と相反する。」

名言です。


言ったのは100年前の日本画家
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菱田春草



日本絵画の星-47 (近代編) 11

菱田春草

(菱田春草)1874-1911


菱田春草の日本絵画の歴史上語られることは、

★横山大観との「朦朧体」画法の開発。

★岡倉天心、横山大観らと日本美術院の創設に関わった。

★36才で亡くなった夭折の画家。


そう、早くに亡くなられているのです。

画業歴15年。


何かをなすには15年は充分か、足らないか、

う〜〜ん、それはその人の運命ですね〜。

何かをなしたから5年で亡くなるとか、よくありますから。


さて

★横山大観との「朦朧体」画法の開発とは


日本画の伝統はそれまで「線」を生かして描くことでした。

それを捨てて、

(それは新しい時代の新しい表現を求めてのことですが、)

色彩を多様して光や空間を表現しようとしました。


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「夕べの森」1906年

はは、「朦朧」としてますね〜。


同じテーマの作品
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なんだか写真黎明期のような絵です。

線がなく輪郭がぼやけると、
ものの存在がぼやけてきて、視覚的な認識ができにくくなります。
それは思考が停止していわゆる左脳が働かなくなる状態になるのではないでしょうか。
そして右脳による感覚的な捉え方に頭の働きが移行します。

そして、それは人を思考という緊張から解放する働きをもたらすのではないでしょうか。


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「 松に月 」1906年

これはいいですね。静かな水平の動きの波を下に
動的な松の葉のフォルムが
対比として画面全体活気づけています。
太陽の位置も絶妙です。


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色的に、同じ時期の作品でしょうか?

紫陽花の時期の湿った空気感が日本人的感性で表現されています。



さて
菱田春草の代表作とされるのは「落葉」のシリーズです。
(文展に出品された制作時期の近い作品全5点のことを指すます。)

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「落葉」六曲一双 1909年

この作品は合わせて横7mはあります。

この画像ではそのスケールは伝わらないのが残念です。

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「落葉」六曲一双 1909年

「朦朧体を発展させ、装飾的な淋派の技法を加えた筆使いは
今光琳とも評された」日本絵画の楽しみ方から引用

これは代々木の雑木林を描いたものだそうです。



最晩年の黒猫の絵も有名です。
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「 黒き猫 」 1910年

柏の葉に黒猫。

背景は描かれていません。



他に時代の作品はこんな感じです。

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「 月下狐 」

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「鹿」


意外やこうゆう絵もありました。

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「王昭君」1902年

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「 賢首菩薩 」1907年

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「菊慈童」



菱田春草
長野県飯田市生まれ。
1893年東京美術大学(現東京芸大)入学。
当時校長だった岡倉天心の強い影響を受ける。美大での教師を経て、
1898年天心と行動を共にして日本美術院の創設に参加。
日本画に新たな技術を導入し日本画の近代化に貢献するも
36歳で病死する。











by hamaremix | 2019-03-02 07:27 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(2)
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「雪降る日」昭和30年





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「山の春」





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「山家早春」昭和17年


懐かしすぎる日本の自然、農村を詩情豊かに描いた画家


それは川合玉堂

玉堂の絵はわれわれ日本人のDNAに埋め込まれた
自然美をそのまま絵にしてみせたような、、
飾り気のない、そこにあって当たり前だけれど、
日本の自然の美を沢山残してくれました。




日本絵画の星-46(近代編)10

川合玉堂

(かわいぎょくどう)1873-1957


その

川合玉堂の到達点の作品をして思われているのがこれ


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「彩雨」 昭和15年

玉堂の水墨的な描法は、湿気の多い日本の風土を
描く時に最大の効果を発揮する。
雨に打たれて煙る、秋の山麓の景色。
たっぷりと水蒸気を含んだ空気を通して、
紅葉した樹木、清らかな緑の竹林、そして白い穂が輝く薄(すすき)が
繊細なグラデーションのなかに溶け合っている。

水車が登場し、雨音と混じりながら聴覚を介して想像力に
働きかけていることに注目しよう。
日本の原風景を追い求めた玉堂の到達点を示す作品。

「近代日本の画家たち」別冊太陽 より


この解説もすばらしく、、、
この絵を言い当てているような気がします。




もう一点、玉堂の代表作 

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「行く春(左隻)」

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「行く春(右隻)」 

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「行く春」 大正5(1916)年


玉堂は秩父のスケッチ旅行の経験をもとにこの作品を描いたのだが、
渓谷の冷気や水の音、そして新緑の香りも含めて、
まさに五感を通じて春の到来を実感できる作品と言えるだろう。

「近代日本の画家たち」別冊太陽 より


山村や田園風景など日本の自然を好んで描いた玉堂
もっとも多く扱った素材は「鵜飼い」だったそうな。

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「鵜飼」

これはいつの時代か調べきれてませんが、
明治に近い頃のような色合いだと思います。
日本画も時代が上がってくると、
明るくなってくるので、、、
そこは西洋画と同じです。

また下から上はへか、上から下へか
視線の誘導が巻き絵っぽいし。



軽やかな日射しの絵にもしっかり日本の色があります。
雨上がりの透明感のある景色ですが、
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「山雨一過」


ちょっと面白い絵を
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「早乙女」


シンプルに簡略された田の水の肌色が早乙女たちを同化させています。

このあたり、
田中一村や福田平八郎につながりますね。

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「家鴨図」



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「春風春水」




川合玉堂が描いてみせた日本の原風景。

原風景ということは、
もはや、過去の世界になりますが、
私たちはこの感覚をどうゆう形にかせよ次世代に
繋げて行きたいものだと考えます。
それは
別に画家でなくても、、
日本のこの自然を愛する気持ちがあれば何かできると思います。























by hamaremix | 2018-12-26 12:14 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)
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一度見たら忘れられない静かだが強い印象を与える絵

タイトルは「弱法師(よろほうし)」重要文化財

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描いたのは下村観山(しもむらかんざん)





日本絵画の星-45(近代編)09

下村観山

(しもむらかんざん)1873-1930

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和歌山県和歌山市に生まれる。
8歳のとき東京へ移住。
最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。
10歳で描いた「大公望」とい絵が芳崖に絶賛されたという。
またフェノロサの観画会にも参加、その出品作はフェノロサに「将来恐るべし」と
讃えられたとか。観山13歳の時らしい。


東京美術学校(現東京芸大)の一期生
横山大観、菱田春草と同期で岡村天心の弟子トリオとなっていきます。


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「木の間の秋」1906

幹の色に変化をつけ空気遠近法で奥行きをだしていますが、
手前の草木は淋派風の装飾的な表現で日本的風景を描き出しています。

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「白狐」1914

尾形光琳の「狐図」に感化され構図を模倣されたという、
が、落ちついた和の色彩と細かく再現された草木は
観山独特の世界観を作っていますね。


晩秋に向う今にピッタリの絵です。

書斎に飾りたい。
書斎なんてないけれど、、、笑


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「春日野」

いいですね〜〜〜、

抹茶チョコ色。


いや、オールドファッション抹茶味風。


喩えがイージー、、、

でも、おいしそうという色彩は絵では大切です。



富士山

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強い色彩の青ですが、優しい、、
独特の表現です。


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「老松白藤図」1921

老松にからむ藤、、
ちょっと奇抜な発想ですが、クリスマスツリー感覚で見ると
楽しい。

新しいです。




面白い絵があります。

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「魚藍観音」1928 昭和3年


ね、、

この顔

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モナ・リサです。



パリのルーブルで模写したというモナリザを
観音さんの顔にしたということらしいです。

どうゆうことでしょうね、、、

パロディにしか見えませんが、、、、

妙にはまってます。



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「春雨図屏風」右隻


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「蜆子」


蜆を取る輩と言う意味ですかね、


下村観山
しじみではなく、しみじみとした日本人の感性をくすぐる
日本画の世界を切開いた画家と言えます。









by hamaremix | 2018-12-01 07:07 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)
さて、
明治元年に生まれ、大正、昭和と生きた
近代日本絵画の巨匠

日本絵画の星-44(近代編)08

横山大観

(よこやまたいかん)1868-1958



先ずはこれ。


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「霊峰飛鶴」

私、当時(1967年)両親から切手を定期的にもらっていて、コレクションしていたので、
これも持ってました。
いや、今も持っています。

そう、富士山の絵、
描いたのが横山大観でした。

富士山に鶴、1967年当時
日本といえば「富士山」と「鶴」でした。



横山大観は「富士山の画家」というイメージが強いですね。

昔の社長室には「富士山」「赤富士」を飾るのがステイタスでした。
ちなみに車はクラウンみたいな。笑

当時「富士山」の絵の需要があまりにも多くあったそうで、
横山大観のパクリの絵も数えられないくらいあったそうです。
昔の、リサイクルショップにも富士山の絵が一杯あったように記憶してます。



当の横山大観も富士山ばかり描いてることを

「私は富士山をよく描く。今も時折り描いてゐます。恐らく、今後も描くだらうと思ひます。一生のうちに富士山の画を何枚描くことになるか、それは私にもわかりません。といつても、自分から進んでいつも富士山ばかり描くといふのではありません。富士山、富士山といつでも沢山持ち込んで来られるからです」


と言っています。


大観の富士山をちょいと見てみましょう。

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「雪富士」

いつの頃かは分りませんが、描きなれて
さらっと描いたものでしょう。


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「群青富士」1917

な、、なんと、なんですか、この間の抜けた、、
いやいや、
いや、シンプルすぎる富士は、、、

逆に現代的かも。


デザイン化されているので、たぶん琳派を意識したのでしょう。




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「霊峰不二山」1933


とっても落ちつきます。

こうゆう絵が飾れる別荘アトリエがどこか田舎に欲しいかも、、笑



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「霊峰の秋」1940

1940年といえば、不穏な次代だったと思うのですが、
そんな時代の空気感はないですね。



そして1942年

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「神国日本」1942


この絵はタイトルからして日本礼讃の内容ですが、
1942年という年を考えると「裏戦争画」といえるかもしれません。

日の丸と富士


なにやらただならぬ気配を持った絵です。

私には飛んでませんが、鶴といった鳥ではなく
零戦が見えてきました。



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「蓬萊山」1949


夜明けですね。




さて、今年は横山大観展(初秋・京都国立近代美術館)を見ました。

その時展示室最後に配された最晩年の大作2点「紅葉」「夜桜」は凄かったです。

ともに義務教育の教科書に載る日本を代表する作品ですが、

やはり美術は生ですね。

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「紅葉(左隻)」

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「紅葉(右隻)」


小さい画像で申し訳ないです。この絵です。

紅葉にこの青は普通持ってきません。
対比が強くなりすぎるからです。

でも、そこが絵のチャレンジャーだった大観、
豪快な対比で着物のような艶やかさを実現しました。





そして「夜桜」

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「夜桜(左隻)」


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「夜桜(右隻)」



この絵のエピソードがあります。

大観は富田渓仙という画家の「祇園夜桜」という絵が気に入っていて、
それを手元に置いていたそうです。

その絵からイマジネーションをもらっていたのでしょうね。

そのイメージを自身の中で鮮明にすることで
名作が生まれました。



その富田渓仙の絵がこれ
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富田渓仙「祇園夜桜」1921

こちらの方が落ちつきますね、、

しかも、
ほぼ一緒。

こうゆのは盗作とか、パクリとは言えません。

原形以上のものができた時、人はもう、言う言葉はないのです。
大観にはハレの感覚があります。


それに昔は、同じ画題、同じ設定て描くことの方が
普通だったからです。





さて、横山大観。

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1868~1958

この豪快な感じの人。お酒の呑み方も豪快だったそうで、

人生後半の50年は飯をほとんど口にせず(たまに食べる時も一粒二粒と数えるほど)、

酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたという。

飲んでいた酒は広島の「醉心」で、これは昭和初期に醉心山根本店の社長・山根薫

知り合った大観が互いに意気投合し、

「一生の飲み分を約束」した山根より無償で大観に送られていたものだった。

しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたという。

代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、

醉心酒造に大観の記念館ができることとなった。ということらしいです。


wikiより



大観は東京美術学校(東京芸大)の1期生である。
岡倉天心、橋本雅邦らに学んでいます。

芸大受験期には狩野芳崖に学んだというから、キャリア的には王道を歩んでいます。

その若かりし頃の絵がこれ、

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「村童観猿翁」

すごい描写力です、、また、明治20年代初期の時代感覚もわかって興味深い内容です。



芸大創業後の若い頃の有名作品がこれ

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「無我」

、、、、、、、あほげな子ども?


この絵を理解するのはなかなか難しい、、



仏教用語に「無我」の境地ってありますが、
それを大観は子どもに見た
ということでしょうか。

確かに子どもの行動は何のいいとか悪いとかはなく、
自分のことさえ意識せず、
無心、無我だと言えるかもです。

ほら、こどもの描く絵は
褒められようとか、うまく描こうとかないですから、

子どもの描いて絵は無我の境地の産物と言えます。



もう一枚、これもとっても有名です。

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「屈原」


中国の歴史上の人物、屈原を描いた歴史画

ですが、

この絵は岡倉天心を暗にイメージして描いたものとされています。




大観は大酒を呑みながらも90歳まで長生きしましたが、

半ばの50歳で描いた、私にとって興味深かったのがこの絵

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「千与四郎」

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「千与四郎(左隻)」1918

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「千与四郎(右隻)」


青い葉の植物に囲まれた構図が好きです。

深い緑の葉っぱとってもがいいです。


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「暮色」1922


朦朧体と揶揄された頃の絵です。



最後に大観が苦手だったされる人物画ですが、

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それでも個性充分の作風ですね。






横山大観データ


横山大観は1958年2月26日(私の誕生日一年後)
に亡くなっています。
で、
その脳はとりだされアルコールづけにされ、
今も東京大学医学部に保管されるというエピソードもありました。


1868年(明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。

府立一中、および私立の東京英語学校学齢時代から絵画に興味を抱き、

洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。

1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。

東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける

(その期間は23か月程度だったと言われる)。


美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、

同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。

またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになった。

1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。

しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。

天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。


美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、

やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。

しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。

現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、

当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、

批判的に使用された言葉であった。

保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、

大観は春草と共に海外に渡った。

インドのカルカッタや、アメリカのニューヨークで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。

この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。

1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。

1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。


以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、

1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。

1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となった。

1937年(昭和12年)には、この年制定された第1回文化勲章の受章者となった。

同年、帝国芸術院会員となる。


戦後の1951年(昭和26年)日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。

大観は1958年(昭和33年2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した

大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。


































by hamaremix | 2018-11-17 08:17 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)
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これどうでしょう。

とってもいい味でています。
絵はそんなに上手くない?けど、丹念に細部を描き込んでいる、
けれどそれで硬い表現になっていない。

温かい絵心を感じる絵ですよね。

右上に描かれているのは何だろう。
照り焼きバーガーにたけのこの耳をつけて、猫に見立てた???


そんなことはありません、
この絵は1880-81年という明治維新後に描かれているんですから。





日本絵画の星-43(近代編)07

竹内栖鳳

(たけうちせいほう)1864-1942



竹内栖鳳は京都で生まれ、京都絵画の伝統「写生表現」を

西洋絵画の影響を受けつつ、

日本画の革新運動の旗手となった絵描きです。


1900年にパリ万国博覧会での受賞に際し渡欧、

見聞したターナー(英)やコロー(仏)の手法を積極的に学んだことで知られています。



その頃の有名な絵がこちら、


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「大獅子図」1902年頃

フランスかどこかのヨーロッパで写生をしたものをモチーフに描いたんだと思います。


私も3年前だったか京都市立美術館で見た「竹内栖鳳展」でも

とても印象に残った絵です。


でも、いいかと言われれば、

図鑑的な描き方なので、面白いとは思いません。(えらそうに、)

ですが、

本物のライオンをリアルに描いただけで、

当時の日本ではとっても話題になったということは想像出来ます。




風景ではこれが有名ですね。

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「ベニスの月」1904年

まだまだ全然西洋のことなんか見たこともない日本人がほとんどだった時代に
この絵のインパクトはすごいものがあったのではと、
歴史的意味を大きく感じる絵です。

ですが、
今見ると、、わりと普通、、、


と思ってしまうのですが、
絵はそれが描かれた時代も考慮して見た方が良い場合もあります。

この、あんまり面白くないスケッチ時代より、
西洋画の絵の概念を咀嚼した上で
日本の風土にあった絵を描いた画業がやはり魅力的ですし、素晴らしいです。



時代順に作品を見てみましょう。

「アレ夕立ちに」
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「アレ夕立ちに」1909年


竹内栖鳳が描いた数少ない人物画です。
清元の「山姥」に取材し、舞妓を描いたものですが、
後進の指導にあたった上村松園の絵はこれがなかったら、
生まれたかどうか分りません、、、

舞妓をこのように描くことが京都の美の伝統に繋がった面もあるのではないでしょうか。




これも有名な人物画

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「絵になる最初」1913年

男49才にして描けた境地ですかね。。



さらに

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「日稼」1917



平面性に戻って描かれたような、今風じゃないですか、、、
現代こうゆう風な絵を描く人います。


ちょっとここだけさかのぼりますが

1910年の絵

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「散華」1910年


あれ、学んだはずの西洋風デッサンは、どこへ行きました???

いえ、いいんです、、、


さて、展覧会でもとっても人気だったのが、
( 猫ブームに乗った、)この絵、、

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「班猫」1824年


かわいい絵の範疇には入らないと思いますが、、

猫の毛の表現の細かさが、先人たちの絵にはなかったのではないでしょうか。



その10年後

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「静閑」1935年


おや、一番最初の絵心があらわになったスケッチ風描写!!

これいい。


かわいい絵に認定します。(誰、君?)




さて、最晩年、亡くなる年に描かれた名作。

このポストカード、展覧会で買いました。

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「春雪」1942年



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竹内栖鳳













by hamaremix | 2018-11-04 10:25 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(1)
富岡鉄斎は1836年、
京都三条で、法衣商の家に生まれます。

10代で一流の師について幅広い学問を学びます。
そして20代前半に長崎に遊学し長崎南画派の指導を受けることで絵を学びます。

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日本絵画の星-41(近代編)05

富岡鉄斎

(とみおかてっさい)1836-1924


このお人は、、、仙人か??


いえいえ、、仙人ではありません、、

しかし、ほぼ仙人のような生き方をした人のように僕には思えます。


生涯「画家は私の本職ではない」といいつつ、

画家としての名声を高め、

幕末〜明治〜大正を生き

文人たる

「万巻の書を読み、千里の道を行く

を座右の銘に、幼少の頃から学者を志します。



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その学問の領域は桁違いに広い。


まず富岡家の家学である石門心学から始まり、

国学、勤王思想、漢学、陽明学、詩文にまで及んでいます。



余技だという

絵画にしても南画(文人画)を中心に、

大和絵、狩野派、淋派などから

幅広い様式を学び吸収している。


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「大江捕魚図」



しかし、一般には南画の画家として知られているのはご承知の通り。


その南画って、苦手でした、私。


ですが、


2〜3年前の兵庫県美の「富岡鉄斎展」や

日本絵画の星で南画の画家を知るうちに、

少しずつその良さは分ってきたところですが、

自分には出来ない絵の様式なので、

やはり、得意ではない。



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「名古曽関」

このように今で言うライブ感が大切なんです、、
私、ライブ苦手なんです。




でも、

文人画の精神は好きです。


知識として世界を知るけれど、何ものにもとらわれない

その超俗という、浮世離れした精神の在り方は、

ある種のこころの理想ではないでしょうか。



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「秋華洞」

この絵、いいです、ほんとうに。


鉄斎は「千里を行く」を実践し、
日本各地を旅して自然を写生したそうです。

中でもいくつかの富士山の絵は、素晴らしいです。

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「富士山図」


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この辺りの絵は南画風ではなく、鉄斎独特の表現の追求の成果が
実を結んでいると感じます。


富岡鉄斎
橋本雅邦とほぼ同世代ですが、
画壇とは距離をおいていたようです。

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「蓬莱仙境図」

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「古木図屏風」

まさに自由奔放。


こんな絵もあります。


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「西郷南洲相撲図」

西郷どんの相撲を取る図ですね、、笑





生涯にわたる「余技」という絵の枚数は
約1万枚点、、、、、



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最後に富岡鉄斎
北摂にゆかりがあります。


清洲荒神の奥に富岡鉄斎美術館がありますので、

みなさん、是非。



















by hamaremix | 2018-09-12 18:14 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)
近代日本の絵画の星たちを巡る旅

日本絵画の星-40(近代編)04

橋本雅邦

(はしもとがほう)1835-1908


えっ、橋本雅邦って、誰、、?

ほとんどの日本人は知らないと思います。


私も絵の世界に居ながら、雅邦と作品について、つい最近まで知りませんでした。汗


が、

ちょっとした美術史本などには

狩野芳崖とともに必ず名が記載される程の画家なのでした。


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橋本雅邦


橋本雅邦と言えばこの作品です。

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 「龍虎図屏風」1895

龍と虎、、室町時代から続く、古典的なテーマ。


しかし、何か違う!!

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「龍虎図屏風」左隻

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「龍虎図屏風」右隻


何がちがうのか、、、

それまではこのテーマで描くのは水墨です。

しかし、しかし、
この龍虎は曖昧な「間」は無く、しかもしっかり着色されていて、
なんだが、水墨のような深みが
違うモードに変わっています。
分かりやすくいえば、漫画やアニメ風〜〜

昭和のアニメ黎明期のよう、、

それが明治の28年に描かれたということに
この作品の新しさがあったのだと思います。


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「騎龍弁天図」

この龍に乗る弁財天も、奇抜なアイデア絵ではないでしょうか。

狩野芳崖の「悲母観音」と繋がる表現に思えます。

明治維新の西洋化のなか、
日本の伝統的なテーマを新しく蘇らすといった挑戦だったと思います。


「龍虎図屏風」や「騎龍弁天図」のような作品は
橋本雅邦のなかでは珍しい方で、
他の多くの作品は江戸期から続く伝統的なものが多いです。

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「白雲紅樹」1890

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「月夜山夜」

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「蓬莱朝陽」1904




橋本雅邦(1835-1908)


雅邦の父の橋本養邦(はしもとおさくに)は武蔵国(埼玉県)川越の御用絵師であり、

慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受けた。

12歳の時正式に勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)を師とする。

この一年前に狩野芳崖も入門しており、7歳年下で穏和な人柄の雅邦と、激情家の芳崖

性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、

生涯の親友となる。


安政7年(1869年)雅邦の号をもらって絵師として独立を許され、

池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。

しかし当時既に絵画の需要は少なく、

また明治維新の動乱に際しては一時藩主のいる川越に避難することになる。

更に明治3年(1870年)に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。

翌年には川越藩も廃止され、報酬を断たれ生活に困窮してしまう。


らまぁ〜〜、狩野芳崖ともども維新越えは大変だったようですね。


兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。

この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、

一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた。


転機となったのはアーネスト・フェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、

フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。




東京美術学校では下村観山横山大観、菱田春草、川合玉堂、らを指導しており、

その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。











by hamaremix | 2018-09-02 10:28 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)

こんばんは。


3ヶ月ぶりに日本絵画の星(近代編)を再開します。

月岡芳年以来です。


江戸後期から明治へと移る頃は、

時代が大変革の時だったので、

攘夷〜開国などの政治の流れは理解できても、

絵の世界がどう揺れたのか?


理解し、それを人に語るのは相当にムズカシイです。汗。


無理なことは無理として、

まま、知られている画家一人一人の作品を見ていくことで、

感覚的に知るということから始めましょう!!




今回もまさに幕末から明治の動乱の時代を生きた絵師。


日本絵画の星-39(近代編)03

狩野芳崖

(かのうほうがい)1828-1888


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一般にはほとんど知られていませんが、

めちゃめちゃ上手い人で、円山応挙並みに鋭利な感覚を持っていた思われます。


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「 谿間雄飛図 」1885

ね。



狩野芳崖

1828年、山口県の御用絵師の長男として生まれていたので、

父に初めて絵を習ったそうです。


1846年江戸に出て、狩野派の狩野勝川院雅信(ただのぶ)に入門。64年ころより芳崖と号した。


ですが、、

維新によって御用絵師として失職したため生活に窮したらしいです。

絵も売れず、日用品を扱う荒物屋を営む妻に生計を頼っていたとか、、

、、、、、

芸術家は明治初頭から貧乏だったのですね、、、




その様子を見ていたフェノロサ(日本美術の指導者)の友人ビゲローは

才能がありながら思うようにならない狩野芳崖に家や生活費、画材費まで与えて絵を描かせていた

ということです。

(フェノロサに見いだされ、交友を得て、西洋画法を学ぶ。)



といったプロフィールを知った上で、

絵を見ていきましょう。



先の絵と同年の作。

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江流百里図 1885年

これは私もどこかで見ています。
現代的な線と形の鋭利さを感じます。

この絵を気に入ったフェノロサは自分のコレクションとして、
自宅の目立つ所に飾っていたという作品。




次もまた1885年作

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「 伏龍羅漢 」 1885年

羅漢像ですが、ちょっとユーモラスです。



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仁王促鬼 」1886年

古いアニメに出てきそうな表現ですが、
狩野芳崖の作品の中でも有名な作品で、
フェノロサのアドバイスでの西洋画材を使用したことが知られている絵。

多様な色を感じますね。

これも、、、ユーモラス、、、、笑



次は不動明王。

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「不動明王」1887年

この時代で、不動明王を描いた絵はなかなか目にしません。

塗り絵的ですが、なんか今にも通じるものを感じます。



最後は狩野芳崖といえばこれ、
で、代表作なのですが、彼の絶筆でもあるのです。


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「悲母観音」1888年


代表作ではありますが、ちょっと馴染みにくいものを感じます。

観音像といえば仏像では、馴染みがありますが、

絵では、ね、

なんかちゃらちゃらしたように思えます。


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「悲母観音」部分


仏像より装飾品が強調されます、、

女性ぽいのに髭が、、、、


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「悲母観音」部分







ということで、おさらいです。

狩野芳崖

幕末から明治期の日本画家近代日本画の父

号は松隣、皐隣。盟友たる橋本雅邦と共に、

日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に

河鍋暁斎菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。







































by hamaremix | 2018-08-01 20:25 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)