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浜本隆司ブログ オーロラ・ドライブ

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浜本隆司のブログ

カテゴリ:日本絵画の星(近代編)( 11 )

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「雪降る日」昭和30年





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「山の春」





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「山家早春」昭和17年


懐かしすぎる日本の自然、農村を詩情豊かに描いた画家


それは川合玉堂

玉堂の絵はわれわれ日本人のDNAに埋め込まれた
自然美をそのまま絵にしてみせたような、、
飾り気のない、そこにあって当たり前だけれど、
日本の自然の美を沢山残してくれました。




日本絵画の星-46(近代編)10

川合玉堂

(かわいぎょくどう)1873-1957


その

川合玉堂の到達点の作品をして思われているのがこれ


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「彩雨」 昭和15年

玉堂の水墨的な描法は、湿気の多い日本の風土を
描く時に最大の効果を発揮する。
雨に打たれて煙る、秋の山麓の景色。
たっぷりと水蒸気を含んだ空気を通して、
紅葉した樹木、清らかな緑の竹林、そして白い穂が輝く薄(すすき)が
繊細なグラデーションのなかに溶け合っている。

水車が登場し、雨音と混じりながら聴覚を介して想像力に
働きかけていることに注目しよう。
日本の原風景を追い求めた玉堂の到達点を示す作品。

「近代日本の画家たち」別冊太陽 より


この解説もすばらしく、、、
この絵を言い当てているような気がします。




もう一点、玉堂の代表作 

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「行く春(左隻)」

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「行く春(右隻)」 

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「行く春」 大正5(1916)年


玉堂は秩父のスケッチ旅行の経験をもとにこの作品を描いたのだが、
渓谷の冷気や水の音、そして新緑の香りも含めて、
まさに五感を通じて春の到来を実感できる作品と言えるだろう。

「近代日本の画家たち」別冊太陽 より


山村や田園風景など日本の自然を好んで描いた玉堂
もっとも多く扱った素材は「鵜飼い」だったそうな。

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「鵜飼」

これはいつの時代か調べきれてませんが、
明治に近い頃のような色合いだと思います。
日本画も時代が上がってくると、
明るくなってくるので、、、
そこは西洋画と同じです。

また下から上はへか、上から下へか
視線の誘導が巻き絵っぽいし。



軽やかな日射しの絵にもしっかり日本の色があります。
雨上がりの透明感のある景色ですが、
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「山雨一過」


ちょっと面白い絵を
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「早乙女」


シンプルに簡略された田の水の肌色が早乙女たちを同化させています。

このあたり、
田中一村や福田平八郎につながりますね。

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「家鴨図」



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「春風春水」




川合玉堂が描いてみせた日本の原風景。

原風景ということは、
もはや、過去の世界になりますが、
私たちはこの感覚をどうゆう形にかせよ次世代に
繋げて行きたいものだと考えます。
それは
別に画家でなくても、、
日本のこの自然を愛する気持ちがあれば何かできると思います。























by hamaremix | 2018-12-26 12:14 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)
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一度見たら忘れられない静かだが強い印象を与える絵

タイトルは「弱法師(よろほうし)」重要文化財

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描いたのは下村観山(しもむらかんざん)





日本絵画の星-45(近代編)09

下村観山

(しもむらかんざん)1873-1930

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和歌山県和歌山市に生まれる。
8歳のとき東京へ移住。
最初狩野芳崖に、その没後は芳崖の親友である橋本雅邦に師事する。
10歳で描いた「大公望」とい絵が芳崖に絶賛されたという。
またフェノロサの観画会にも参加、その出品作はフェノロサに「将来恐るべし」と
讃えられたとか。観山13歳の時らしい。


東京美術学校(現東京芸大)の一期生
横山大観、菱田春草と同期で岡村天心の弟子トリオとなっていきます。


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「木の間の秋」1906

幹の色に変化をつけ空気遠近法で奥行きをだしていますが、
手前の草木は淋派風の装飾的な表現で日本的風景を描き出しています。

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「白狐」1914

尾形光琳の「狐図」に感化され構図を模倣されたという、
が、落ちついた和の色彩と細かく再現された草木は
観山独特の世界観を作っていますね。


晩秋に向う今にピッタリの絵です。

書斎に飾りたい。
書斎なんてないけれど、、、笑


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「春日野」

いいですね〜〜〜、

抹茶チョコ色。


いや、オールドファッション抹茶味風。


喩えがイージー、、、

でも、おいしそうという色彩は絵では大切です。



富士山

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強い色彩の青ですが、優しい、、
独特の表現です。


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「老松白藤図」1921

老松にからむ藤、、
ちょっと奇抜な発想ですが、クリスマスツリー感覚で見ると
楽しい。

新しいです。




面白い絵があります。

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「魚藍観音」1928 昭和3年


ね、、

この顔

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モナ・リサです。



パリのルーブルで模写したというモナリザを
観音さんの顔にしたということらしいです。

どうゆうことでしょうね、、、

パロディにしか見えませんが、、、、

妙にはまってます。



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「春雨図屏風」右隻


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「蜆子」


蜆を取る輩と言う意味ですかね、


下村観山
しじみではなく、しみじみとした日本人の感性をくすぐる
日本画の世界を切開いた画家と言えます。









by hamaremix | 2018-12-01 07:07 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)
さて、
明治元年に生まれ、大正、昭和と生きた
近代日本絵画の巨匠

日本絵画の星-44(近代編)08

横山大観

(よこやまたいかん)1868-1958



先ずはこれ。


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「霊峰飛鶴」

私、当時(1967年)両親から切手を定期的にもらっていて、コレクションしていたので、
これも持ってました。
いや、今も持っています。

そう、富士山の絵、
描いたのが横山大観でした。

富士山に鶴、1967年当時
日本といえば「富士山」と「鶴」でした。



横山大観は「富士山の画家」というイメージが強いですね。

昔の社長室には「富士山」「赤富士」を飾るのがステイタスでした。
ちなみに車はクラウンみたいな。笑

当時「富士山」の絵の需要があまりにも多くあったそうで、
横山大観のパクリの絵も数えられないくらいあったそうです。
昔の、リサイクルショップにも富士山の絵が一杯あったように記憶してます。



当の横山大観も富士山ばかり描いてることを

「私は富士山をよく描く。今も時折り描いてゐます。恐らく、今後も描くだらうと思ひます。一生のうちに富士山の画を何枚描くことになるか、それは私にもわかりません。といつても、自分から進んでいつも富士山ばかり描くといふのではありません。富士山、富士山といつでも沢山持ち込んで来られるからです」


と言っています。


大観の富士山をちょいと見てみましょう。

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「雪富士」

いつの頃かは分りませんが、描きなれて
さらっと描いたものでしょう。


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「群青富士」1917

な、、なんと、なんですか、この間の抜けた、、
いやいや、
いや、シンプルすぎる富士は、、、

逆に現代的かも。


デザイン化されているので、たぶん琳派を意識したのでしょう。




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「霊峰不二山」1933


とっても落ちつきます。

こうゆう絵が飾れる別荘アトリエがどこか田舎に欲しいかも、、笑



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「霊峰の秋」1940

1940年といえば、不穏な次代だったと思うのですが、
そんな時代の空気感はないですね。



そして1942年

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「神国日本」1942


この絵はタイトルからして日本礼讃の内容ですが、
1942年という年を考えると「裏戦争画」といえるかもしれません。

日の丸と富士


なにやらただならぬ気配を持った絵です。

私には飛んでませんが、鶴といった鳥ではなく
零戦が見えてきました。



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「蓬萊山」1949


夜明けですね。




さて、今年は横山大観展(初秋・京都国立近代美術館)を見ました。

その時展示室最後に配された最晩年の大作2点「紅葉」「夜桜」は凄かったです。

ともに義務教育の教科書に載る日本を代表する作品ですが、

やはり美術は生ですね。

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「紅葉(左隻)」

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「紅葉(右隻)」


小さい画像で申し訳ないです。この絵です。

紅葉にこの青は普通持ってきません。
対比が強くなりすぎるからです。

でも、そこが絵のチャレンジャーだった大観、
豪快な対比で着物のような艶やかさを実現しました。





そして「夜桜」

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「夜桜(左隻)」


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「夜桜(右隻)」



この絵のエピソードがあります。

大観は富田渓仙という画家の「祇園夜桜」という絵が気に入っていて、
それを手元に置いていたそうです。

その絵からイマジネーションをもらっていたのでしょうね。

そのイメージを自身の中で鮮明にすることで
名作が生まれました。



その富田渓仙の絵がこれ
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富田渓仙「祇園夜桜」1921

こちらの方が落ちつきますね、、

しかも、
ほぼ一緒。

こうゆのは盗作とか、パクリとは言えません。

原形以上のものができた時、人はもう、言う言葉はないのです。
大観にはハレの感覚があります。


それに昔は、同じ画題、同じ設定て描くことの方が
普通だったからです。





さて、横山大観。

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1868~1958

この豪快な感じの人。お酒の呑み方も豪快だったそうで、

人生後半の50年は飯をほとんど口にせず(たまに食べる時も一粒二粒と数えるほど)、

酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたという。

飲んでいた酒は広島の「醉心」で、これは昭和初期に醉心山根本店の社長・山根薫

知り合った大観が互いに意気投合し、

「一生の飲み分を約束」した山根より無償で大観に送られていたものだった。

しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたという。

代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、

醉心酒造に大観の記念館ができることとなった。ということらしいです。


wikiより



大観は東京美術学校(東京芸大)の1期生である。
岡倉天心、橋本雅邦らに学んでいます。

芸大受験期には狩野芳崖に学んだというから、キャリア的には王道を歩んでいます。

その若かりし頃の絵がこれ、

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「村童観猿翁」

すごい描写力です、、また、明治20年代初期の時代感覚もわかって興味深い内容です。



芸大創業後の若い頃の有名作品がこれ

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「無我」

、、、、、、、あほげな子ども?


この絵を理解するのはなかなか難しい、、



仏教用語に「無我」の境地ってありますが、
それを大観は子どもに見た
ということでしょうか。

確かに子どもの行動は何のいいとか悪いとかはなく、
自分のことさえ意識せず、
無心、無我だと言えるかもです。

ほら、こどもの描く絵は
褒められようとか、うまく描こうとかないですから、

子どもの描いて絵は無我の境地の産物と言えます。



もう一枚、これもとっても有名です。

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「屈原」


中国の歴史上の人物、屈原を描いた歴史画

ですが、

この絵は岡倉天心を暗にイメージして描いたものとされています。




大観は大酒を呑みながらも90歳まで長生きしましたが、

半ばの50歳で描いた、私にとって興味深かったのがこの絵

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「千与四郎」

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「千与四郎(左隻)」1918

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「千与四郎(右隻)」


青い葉の植物に囲まれた構図が好きです。

深い緑の葉っぱとってもがいいです。


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「暮色」1922


朦朧体と揶揄された頃の絵です。



最後に大観が苦手だったされる人物画ですが、

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それでも個性充分の作風ですね。






横山大観データ


横山大観は1958年2月26日(私の誕生日一年後)
に亡くなっています。
で、
その脳はとりだされアルコールづけにされ、
今も東京大学医学部に保管されるというエピソードもありました。


1868年(明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。

府立一中、および私立の東京英語学校学齢時代から絵画に興味を抱き、

洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。

1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。

東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける

(その期間は23か月程度だったと言われる)。


美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、

同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。

またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになった。

1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。

しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。

天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。


美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、

やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。

しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。

現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、

当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、

批判的に使用された言葉であった。

保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、

大観は春草と共に海外に渡った。

インドのカルカッタや、アメリカのニューヨークで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。

この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。

1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。

1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。


以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、

1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。

1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となった。

1937年(昭和12年)には、この年制定された第1回文化勲章の受章者となった。

同年、帝国芸術院会員となる。


戦後の1951年(昭和26年)日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。

大観は1958年(昭和33年2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した

大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。


































by hamaremix | 2018-11-17 08:17 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)
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これどうでしょう。

とってもいい味でています。
絵はそんなに上手くない?けど、丹念に細部を描き込んでいる、
けれどそれで硬い表現になっていない。

温かい絵心を感じる絵ですよね。

右上に描かれているのは何だろう。
照り焼きバーガーにたけのこの耳をつけて、猫に見立てた???


そんなことはありません、
この絵は1880-81年という明治維新後に描かれているんですから。





日本絵画の星-43(近代編)07

竹内栖鳳

(たけうちせいほう)1864-1942



竹内栖鳳は京都で生まれ、京都絵画の伝統「写生表現」を

西洋絵画の影響を受けつつ、

日本画の革新運動の旗手となった絵描きです。


1900年にパリ万国博覧会での受賞に際し渡欧、

見聞したターナー(英)やコロー(仏)の手法を積極的に学んだことで知られています。



その頃の有名な絵がこちら、


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「大獅子図」1902年頃

フランスかどこかのヨーロッパで写生をしたものをモチーフに描いたんだと思います。


私も3年前だったか京都市立美術館で見た「竹内栖鳳展」でも

とても印象に残った絵です。


でも、いいかと言われれば、

図鑑的な描き方なので、面白いとは思いません。(えらそうに、)

ですが、

本物のライオンをリアルに描いただけで、

当時の日本ではとっても話題になったということは想像出来ます。




風景ではこれが有名ですね。

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「ベニスの月」1904年

まだまだ全然西洋のことなんか見たこともない日本人がほとんどだった時代に
この絵のインパクトはすごいものがあったのではと、
歴史的意味を大きく感じる絵です。

ですが、
今見ると、、わりと普通、、、


と思ってしまうのですが、
絵はそれが描かれた時代も考慮して見た方が良い場合もあります。

この、あんまり面白くないスケッチ時代より、
西洋画の絵の概念を咀嚼した上で
日本の風土にあった絵を描いた画業がやはり魅力的ですし、素晴らしいです。



時代順に作品を見てみましょう。

「アレ夕立ちに」
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「アレ夕立ちに」1909年


竹内栖鳳が描いた数少ない人物画です。
清元の「山姥」に取材し、舞妓を描いたものですが、
後進の指導にあたった上村松園の絵はこれがなかったら、
生まれたかどうか分りません、、、

舞妓をこのように描くことが京都の美の伝統に繋がった面もあるのではないでしょうか。




これも有名な人物画

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「絵になる最初」1913年

男49才にして描けた境地ですかね。。



さらに

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「日稼」1917



平面性に戻って描かれたような、今風じゃないですか、、、
現代こうゆう風な絵を描く人います。


ちょっとここだけさかのぼりますが

1910年の絵

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「散華」1910年


あれ、学んだはずの西洋風デッサンは、どこへ行きました???

いえ、いいんです、、、


さて、展覧会でもとっても人気だったのが、
( 猫ブームに乗った、)この絵、、

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「班猫」1824年


かわいい絵の範疇には入らないと思いますが、、

猫の毛の表現の細かさが、先人たちの絵にはなかったのではないでしょうか。



その10年後

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「静閑」1935年


おや、一番最初の絵心があらわになったスケッチ風描写!!

これいい。


かわいい絵に認定します。(誰、君?)




さて、最晩年、亡くなる年に描かれた名作。

このポストカード、展覧会で買いました。

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「春雪」1942年



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竹内栖鳳













by hamaremix | 2018-11-04 10:25 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(1)
富岡鉄斎は1836年、
京都三条で、法衣商の家に生まれます。

10代で一流の師について幅広い学問を学びます。
そして20代前半に長崎に遊学し長崎南画派の指導を受けることで絵を学びます。

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日本絵画の星-41(近代編)05

富岡鉄斎

(とみおかてっさい)1836-1924


このお人は、、、仙人か??


いえいえ、、仙人ではありません、、

しかし、ほぼ仙人のような生き方をした人のように僕には思えます。


生涯「画家は私の本職ではない」といいつつ、

画家としての名声を高め、

幕末〜明治〜大正を生き

文人たる

「万巻の書を読み、千里の道を行く

を座右の銘に、幼少の頃から学者を志します。



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その学問の領域は桁違いに広い。


まず富岡家の家学である石門心学から始まり、

国学、勤王思想、漢学、陽明学、詩文にまで及んでいます。



余技だという

絵画にしても南画(文人画)を中心に、

大和絵、狩野派、淋派などから

幅広い様式を学び吸収している。


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「大江捕魚図」



しかし、一般には南画の画家として知られているのはご承知の通り。


その南画って、苦手でした、私。


ですが、


2〜3年前の兵庫県美の「富岡鉄斎展」や

日本絵画の星で南画の画家を知るうちに、

少しずつその良さは分ってきたところですが、

自分には出来ない絵の様式なので、

やはり、得意ではない。



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「名古曽関」

このように今で言うライブ感が大切なんです、、
私、ライブ苦手なんです。




でも、

文人画の精神は好きです。


知識として世界を知るけれど、何ものにもとらわれない

その超俗という、浮世離れした精神の在り方は、

ある種のこころの理想ではないでしょうか。



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「秋華洞」

この絵、いいです、ほんとうに。


鉄斎は「千里を行く」を実践し、
日本各地を旅して自然を写生したそうです。

中でもいくつかの富士山の絵は、素晴らしいです。

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「富士山図」


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この辺りの絵は南画風ではなく、鉄斎独特の表現の追求の成果が
実を結んでいると感じます。


富岡鉄斎
橋本雅邦とほぼ同世代ですが、
画壇とは距離をおいていたようです。

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「蓬莱仙境図」

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「古木図屏風」

まさに自由奔放。


こんな絵もあります。


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「西郷南洲相撲図」

西郷どんの相撲を取る図ですね、、笑





生涯にわたる「余技」という絵の枚数は
約1万枚点、、、、、



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最後に富岡鉄斎
北摂にゆかりがあります。


清洲荒神の奥に富岡鉄斎美術館がありますので、

みなさん、是非。



















by hamaremix | 2018-09-12 18:14 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)
近代日本の絵画の星たちを巡る旅

日本絵画の星-40(近代編)04

橋本雅邦

(はしもとがほう)1835-1908


えっ、橋本雅邦って、誰、、?

ほとんどの日本人は知らないと思います。


私も絵の世界に居ながら、雅邦と作品について、つい最近まで知りませんでした。汗


が、

ちょっとした美術史本などには

狩野芳崖とともに必ず名が記載される程の画家なのでした。


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橋本雅邦


橋本雅邦と言えばこの作品です。

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 「龍虎図屏風」1895

龍と虎、、室町時代から続く、古典的なテーマ。


しかし、何か違う!!

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「龍虎図屏風」左隻

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「龍虎図屏風」右隻


何がちがうのか、、、

それまではこのテーマで描くのは水墨です。

しかし、しかし、
この龍虎は曖昧な「間」は無く、しかもしっかり着色されていて、
なんだが、水墨のような深みが
違うモードに変わっています。
分かりやすくいえば、漫画やアニメ風〜〜

昭和のアニメ黎明期のよう、、

それが明治の28年に描かれたということに
この作品の新しさがあったのだと思います。


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「騎龍弁天図」

この龍に乗る弁財天も、奇抜なアイデア絵ではないでしょうか。

狩野芳崖の「悲母観音」と繋がる表現に思えます。

明治維新の西洋化のなか、
日本の伝統的なテーマを新しく蘇らすといった挑戦だったと思います。


「龍虎図屏風」や「騎龍弁天図」のような作品は
橋本雅邦のなかでは珍しい方で、
他の多くの作品は江戸期から続く伝統的なものが多いです。

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「白雲紅樹」1890

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「月夜山夜」

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「蓬莱朝陽」1904




橋本雅邦(1835-1908)


雅邦の父の橋本養邦(はしもとおさくに)は武蔵国(埼玉県)川越の御用絵師であり、

慣習に従い5歳の頃から実父より狩野派のてほどきを受けた。

12歳の時正式に勝川院雅信(しょうせんいん ただのぶ)を師とする。

この一年前に狩野芳崖も入門しており、7歳年下で穏和な人柄の雅邦と、激情家の芳崖

性格は正反対であったが、共に現状の狩野派への不満と独創的表現への意欲を共有し、

生涯の親友となる。


安政7年(1869年)雅邦の号をもらって絵師として独立を許され、

池田播磨守の家臣高田藤左衛門の娘・とめ子と結婚する。

しかし当時既に絵画の需要は少なく、

また明治維新の動乱に際しては一時藩主のいる川越に避難することになる。

更に明治3年(1870年)に木挽町狩野家は火災で焼失、雅邦も財産のほとんどを焼失してしまう。

翌年には川越藩も廃止され、報酬を断たれ生活に困窮してしまう。


らまぁ〜〜、狩野芳崖ともども維新越えは大変だったようですね。


兵部省の海軍兵学校において図係学係として製図を行うようになった。

この後狩野派の絵師としての活動はほとんど出来なくなり、

一時は油絵を描くことさえ余儀なくされた。


転機となったのはアーネスト・フェノロサによる伝統絵画の復興運動であり、

フェノロサの庇護を受けていた芳崖と共に新しい表現技法を模索するようになる。




東京美術学校では下村観山横山大観、菱田春草、川合玉堂、らを指導しており、

その指導が近代美術に及ぼした影響は大きい。











by hamaremix | 2018-09-02 10:28 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)

こんばんは。


3ヶ月ぶりに日本絵画の星(近代編)を再開します。

月岡芳年以来です。


江戸後期から明治へと移る頃は、

時代が大変革の時だったので、

攘夷〜開国などの政治の流れは理解できても、

絵の世界がどう揺れたのか?


理解し、それを人に語るのは相当にムズカシイです。汗。


無理なことは無理として、

まま、知られている画家一人一人の作品を見ていくことで、

感覚的に知るということから始めましょう!!




今回もまさに幕末から明治の動乱の時代を生きた絵師。


日本絵画の星-39(近代編)03

狩野芳崖

(かのうほうがい)1828-1888


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一般にはほとんど知られていませんが、

めちゃめちゃ上手い人で、円山応挙並みに鋭利な感覚を持っていた思われます。


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「 谿間雄飛図 」1885

ね。



狩野芳崖

1828年、山口県の御用絵師の長男として生まれていたので、

父に初めて絵を習ったそうです。


1846年江戸に出て、狩野派の狩野勝川院雅信(ただのぶ)に入門。64年ころより芳崖と号した。


ですが、、

維新によって御用絵師として失職したため生活に窮したらしいです。

絵も売れず、日用品を扱う荒物屋を営む妻に生計を頼っていたとか、、

、、、、、

芸術家は明治初頭から貧乏だったのですね、、、




その様子を見ていたフェノロサ(日本美術の指導者)の友人ビゲローは

才能がありながら思うようにならない狩野芳崖に家や生活費、画材費まで与えて絵を描かせていた

ということです。

(フェノロサに見いだされ、交友を得て、西洋画法を学ぶ。)



といったプロフィールを知った上で、

絵を見ていきましょう。



先の絵と同年の作。

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江流百里図 1885年

これは私もどこかで見ています。
現代的な線と形の鋭利さを感じます。

この絵を気に入ったフェノロサは自分のコレクションとして、
自宅の目立つ所に飾っていたという作品。




次もまた1885年作

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「 伏龍羅漢 」 1885年

羅漢像ですが、ちょっとユーモラスです。



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仁王促鬼 」1886年

古いアニメに出てきそうな表現ですが、
狩野芳崖の作品の中でも有名な作品で、
フェノロサのアドバイスでの西洋画材を使用したことが知られている絵。

多様な色を感じますね。

これも、、、ユーモラス、、、、笑



次は不動明王。

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「不動明王」1887年

この時代で、不動明王を描いた絵はなかなか目にしません。

塗り絵的ですが、なんか今にも通じるものを感じます。



最後は狩野芳崖といえばこれ、
で、代表作なのですが、彼の絶筆でもあるのです。


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「悲母観音」1888年


代表作ではありますが、ちょっと馴染みにくいものを感じます。

観音像といえば仏像では、馴染みがありますが、

絵では、ね、

なんかちゃらちゃらしたように思えます。


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「悲母観音」部分


仏像より装飾品が強調されます、、

女性ぽいのに髭が、、、、


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「悲母観音」部分







ということで、おさらいです。

狩野芳崖

幕末から明治期の日本画家近代日本画の父

号は松隣、皐隣。盟友たる橋本雅邦と共に、

日本画において江戸時代と明治時代を橋渡しする役割を担うと共に

河鍋暁斎菊池容斎らと狩野派の最後を飾った。







































by hamaremix | 2018-08-01 20:25 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)

今月は月岡芳年の絵をづっと見てきましたが、

、、、


とにかく凄い数の作品がありまして、、、


それを短時間でひとつひとつを感じ、理解し、楽しむには

全くもって無理だと確信しました。



ますます、この月岡芳年という画家の大きさに

打ちのめされました、、、ほんと、、


ですので、今回2回目ですが、

今まででのようにさらりと(なかなかそうはいかない画風ですが)紹介しておくことにしました。


日本絵画の星-38(近代編)02-2

月岡芳年


(つきおかよしとし)1839-1892


月岡芳年

明治6年に強度の神経衰弱に落ち入ってしまいます。


数年に療養ののち復活を果たし、またすざましい制作活動に専念していきます。




「大日本名将鑑」明治十年~十五年(1877-82)

《神代から江戸まで、歴史の名を残した偉人たちのオンパレード》


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「上毛野八綱田」

ドラマティックとしか言いようがありません。

上毛野八綱田は日本書紀にみえる豪族。垂仁天皇5年
狭穂彦の反乱の際に将軍に任命され、
火打で自殺に追いやった。




同じように日本史のなかから歴代天皇を描きます。

「大日本史略図会」明治十二年(1879)

《日本神話の神から歴代天皇ファンタジー》


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「 第十五代神功皇后 」


洒落た色と構図です。


神功皇后は朝鮮出兵で有名ですが、住吉大社を作った人でもあり、

祀られていますね。



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 「 第八十代安徳天皇 」

源平合戦の最後、壇ノ浦の戦いで二位尼に抱かれ入水した悲劇の天皇ですね。




「芳年略画」明治十五年(1882)

《ユーモアが散りばめられた戯画の世界》


ここはユーモラスな芳年の絵の世界。

疲れ果てた桃太郎の帰還ですか、、、笑

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自分が描いた幽霊の図が本物になって現れ驚く、、、絵師




「芳年武者无類(ぶるい)」明治十六~十九年(1883-86)

《研ぎ澄まされた色彩に、武者(歴史的英雄)絵の新鮮味を感じるシリーズ》


伝統的な武者絵として描いたようで、

武者絵の完成系がここにあります。全33図


有名な一枚

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 「 畠山庄司重忠 」


畠山庄司重忠とは鎌倉時代の武将、頼朝に仕え

木曾義仲追討ののち奥州藤原氏征伐で功を上げた人物。




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 「 木下藤吉郎 」

いわずと知れた秀吉。
朝井長政・朝倉義景との姉川の戦いで
討ち取った首をかかげている。



さぁ、月岡芳年にはまだまだ膨大なシリーズがありますが、

ここは私の好きな絵だけをピックアップしておくことにしますね。



〈三枚続画帖〉明治十六~十八年(1883~85)

《大判錦絵》


三枚絵といわれるワイド画面に真骨頂を感じるのは私でけではないでしょう、、


なかでもこれが一番好き。


玄関に飾っておきたいです。


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「 藤原保昌月下弄笛図 」


かっこいい〜〜。



それと私がとっても驚いた構図と動きの絵がこれ
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「 義経記五条橋之図 」

義経が弁慶に初めて会い戦った五条橋の絵、、

う〜〜ん、すばらしい。




さて、六甲アイランドで開催された「月岡芳年展」で始めて見た
西郷隆盛を描いた何枚かの絵が衝撃的でした。

当時の人も英雄とされた西郷が政府と戦い、自決に追いやられたことも
衝撃だったのでしょうね、、、

その場面を月岡芳年が描いていました。

西郷の自決は城山の洞窟でのことが史実ですが、
月岡芳年の時代にはそのことは知れれてなかったようで
このような図になっていました。
それはそれです、、、

西郷の最後のことばは

「もうこのへんでよか」

でしたよね。

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「 西郷隆盛切腹図 」明治十年


そして、最後にはこれです!


日本絵画史上最も怖い絵


 「 奥州安達がはらひとつ家の図 」

迷信というものの怖さ残酷さが近代の目で描き出されています。

くわばら、くわばら、、

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最後に後半の作品シリーズを資料的に貼っておきます。

「雅立功名艦」明治十年(1877)《歴史に名を残した武将たちの、若き頃の強くてたくましい姿》

「大日本名将鑑」明治十年~十五年(1877-82)《神代から江戸まで、歴史の名を残した偉人たちのオンパレード》

「大日本史略図会」明治十二年(1879)《日本神話の神から歴代天皇ファンタジー》

「皇国二十四功」明治十四年・二十年(1881・87)《古今にわたり功をあげた二十四人を描いたシリーズ》

「本朝忠孝鑑」明治十四年(1881)《日本人の持っている強さと思いやりの手本、忠孝の精神を描いた物語》

「教訓善悪図解」明治十三年(1880)《いま一度、善と悪を確かめてわが身を問う教科書》

「芳年略画」明治十五年(1882)《ユーモアが散りばめられた戯画の世界》

「芳年武者无類(ぶるい)」明治十六~十九年(1883-86)《研ぎ澄まされた色彩に、武者(歴史的英雄)絵の新鮮味を感じるシリーズ》

〈三枚続画帖〉明治十六~十八年(1883~85)《大判錦絵》

「芳年漫画」明治十八~二十一年(1885~88)《芳年の真骨頂、イラストレーション的錦絵のはじまり》後期の代表作

「新撰東錦絵」明治十八~二十二年(1885~89)《精緻な筆が細部をとらえ、大画面に描く色彩の魔術師の人気のシリーズ》後期の代表作

「月百姿」明治十八~二十五年(1885~92)《江戸浮世絵に対する芳年の追慕の念が浮かび上がってくる最後の大作》

「新形三十六怪撰」明治二十二~二十五年(1889~92)《神経病とたたかい、苦悶のなかで三十六図の連作を仕立て上げた。最晩年の妖怪・怪異画の集大成》

「月百姿」明治十八~二十五年(1885~92)《江戸浮世絵に対する芳年の追慕の念が浮かび上がってくる最後の大作》

〈竪二枚続作品〉明治十八~二十二年(1885~89)《大判錦絵》

〈三枚続作品〉明治元年~二十三年(1868~90)《大判錦絵》

「見立多以尽」明治十~十一年(1885~92)《日常生活のなかで見せる、粋な明治女性の艶姿》

「新柳二十四時」明治十三~十四年(1880~81)《花の新橋・柳橋、芸者たちの二十四時間密着取材》

「東京自慢十二ヶ月」明治十三(1880)《艶やかな明治美人が案内する東京名所》

「風俗三十二相」明治二十一年(1888)《近代美人画のモデルになった、江戸から明治の美人列伝》

「全盛四季」明治十六年(1883)《根津遊郭の大松楼、四季の風情と人間模様》


「郵便報知新聞」〈新聞錦絵〉




月岡芳年 完


by hamaremix | 2018-04-22 09:03 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)

いよいよ登場

月岡芳年


私の思い入りが強いので、長くなりそうなところ、

でも、まだ芳年の作品をしっかり理解できていないので、

落ちついてやります。


何しろ一時、「無惨絵!」「血みどろの浮世絵師」と呼ばれた月岡芳年


閲覧注意の絵も沢山あるので、

グロいものが駄目な人は、


ここで立ちどまって、考えてから進んで下さいね。



日本絵画の星-38(近代編)02

月岡芳年

(つきおかよしとし)1839-1892


月岡芳年

の絵の魅力に取り憑かれて人は

江戸川乱歩、三島由紀夫、横尾忠則、

国粋主義者的な人から人生の闇を知る人までいますが、

常識を嫌う個性的な人たちばかりかと。


12歳で歌川国芳に弟子入り、

20代最初から絵師として活躍。

様々なシリーズを打ち出しています。そのシリーズを追って

月岡芳年の作品を紹介していきましょう。




「通俗西遊記」元治元年~慶応元年(1864~65)

《西遊記の名場面を二十六歳の躍動的なタッチで描く》


「西遊記」は幕末でも人気があったのですね。

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にぎにぎしい〜。
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ほっほー、北斎ばりの斬新さ。



「和漢百物語」慶応元年(1865)

《日本と中国の怪奇談と英雄にまつわる幻想世界・芳年初めての妖怪画》

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「頓欲ノ婆々」
これ月岡芳年展でも異彩を放って記憶に残る一枚ですなぁ〜。

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「入雲龍公孫勝」

入雲龍公孫勝とは水滸伝に登場する108人の豪傑のひとり





「美勇水滸伝」慶応二年~三年(1866~67)

《幕末当時の小説や芝居好きにはたまらない読本や合巻の登場人物を描く》


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「炎出見命彦」

日本の古き時代をとっても感じさせる色彩です。

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「二木辨之助」

芳年の絵はいつも動いてると感じます。



「和漢豪気揃」慶応二年(1866)

《金太郎、鬼若丸や平維茂といった力持ちや豪傑を描く》


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「鬼若丸」

男の子は強く、元気でなくてはいけません。
という美意識!!
ですね。




「近世侠義伝」慶応元年~二年(1865-66)

《利根川沿いの縄張り争いを描いた侠客シリーズ》


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「生魚長次郎」

いわばやくざ同士の戦いの絵、

首が!!!!!


日本では約160年前まで、勝負の勝ち負けは
首をとるかどうかだったのです!!

維新の志士たちも負ければ首をさらされたりしてました。


猛々しい、、というか、
怖い、、、、




さて、
月岡芳年の代表作
が次です。


「英名二十八衆句」慶応二年~三年(1866-67)

《落合芳幾との合作で芳年最初の代表作・歌舞伎における殺しの残酷シーンを絵画化》


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「勝間源五兵衛」

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「古手屋八郎兵衛」

ここで、版で摺った絵の上に
膠に溶いた赤を手書きで書き加えて、
艶をだすこともこころみました。

血の表現にこだわったのですね。




「東錦浮世稿談」慶応三年~四年(1867-68)

《人気のあった講談を題材にした全五十話のシリーズ》


幕末から明治初頭、

どんな日本人が人気であったのか、私はとっても興味があるのですが、

この芳年の

シリーズに登場する人物達のほとんどを私は知らない。


詳しく知る程に、当時の日本人の価値観も

わかるというものですが、、

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「 幡隨院長兵衛 」

17世紀江戸でのヒーローだったという幡随院長衛。
入浴中に襲われ、血まみれになっている、、、、
くだりらしい、、




さて、もうひとつの月岡芳年の名を上げた代表作。


「魁題百撰相」明治元年~二年(1866-67)

《古今の英雄たちの名で彰義隊の戦いを描く》


日本人同士が

血を血で洗うような戦いをした江戸の彰義隊と新政府軍の戦い上野戦争。

芳年は悲惨な戦士たちの姿をスケッチに出かけたという。


しかし、相手は 新政府の敵にあたる隊。

政府に批判されるので、

古今の英雄たちに例えて彰義隊の彼らを表現したようです。


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「駒木根八兵衛」

銃口が見るものに向けられる、新しい構図で、
真に迫る。


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「鷺池平九郎」

楠木正成に使えたという伝説の人物。
観音寺村出身というところから観世音の文字がみられる。


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「 森力丸 」




この頃までの呪われたように描き続けた芳年
はいよいよ精神に疲弊が見られるようになったという。

そりぁ〜、こんな絵ばかり描いているとおかしくもなりましょう。

そのおかしくなってきた頃のシリーズ


「一魁隨筆」明治五年~六年(1872-73)

《和漢の物語の主人公が勢揃い》


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「燕人張飛」

色が明らかにおかしいし、デッサンも異常な感じがします。


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「犬塚信乃 犬飼見八」


瓦が落ちているののが描かれているので、
このふたりは屋根から落ちている、まさにその瞬間!

映画的手法で、びっくり構図。


これはとんでます!!!





芳年
はしばらく休養ののち復活してきます。
そこは2に!


ということで、月岡芳年 前半終了です。





by hamaremix | 2018-03-24 08:19 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)
ちょんまげの人の自画像。
しかも油絵による。

ちょっと滑稽です。
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髷は小さく、顔の陰影が強調され、
本来そんなに凹凸のない顔の平面性が崩れています。
ロウソクの光の元で鏡を見て描いているはずですが、
正面を向いていません。

何よりもその品のない顔立ちの肖像画っていうのが
おかしいのかもしれません。

でも。この肖像は「日本油絵の父」と呼ばれている
高橋由一の自画像なのです。



日本絵画の星(近代編)01
高橋由一
(たかはしゆいち)1828-1894

高橋由一といえばこの絵で有名。
たぶん誰でも教科書等で見て知っているはずです。

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「鮭」

ああ、しゃけ!

この絵は近代絵画の夜明けを代表する作品として
記録されています。

もう一点有名なのがこの絵
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「花魁」 1872

花魁の油絵!
不思議な感じがしますね。

歌麿の美人画とかを思いだして下さい。
なんか、生活感がにじみ出ていて、うっとり出来ません。笑


高橋由一以前にも油絵を描いた絵師はいましたが、
高橋由一ほど生涯を油絵にかけた人はいませんでした。

しかも
明治維新後から大いに活躍した人ですから、
「西洋画の移入」という意識もとても強かったようです。
実際に西洋画の普及を自分の使命と感じていたようです。


高橋由一は江戸生まれの佐野藩(佐倉堀田藩の支藩)の
武士でした。
小さい頃から絵が上手かったそうですが、家業の剣術指南役が忙しかったそうで、
本格的に絵に取り組めたのは30歳を超えたあたりからです。

きっかけは
嘉永年間のある時、西洋の石版画に接して、
日本や中国の絵とは全く異なる迫真的な描写力に衝撃を受けたことでした。
それまで狩野派の先生に習ってはいたものの、
以後は西洋画(以後「洋画」)の研究を決意したようです。


1866年本格的にイギリス人のワーグマンに指事
翌年はパリ万国博覧会へ出展しています。


高橋は人物を静物も風景も描いています。
鮭等の静物画が一般にはよく知られています。
それは、その必要なまでに細部を描き込んだ、
リアリズムが世界の何処にもない独特の描写だからではないでしょうか。

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「豆腐」1877

豆腐がぷるんぷるんしてます。
しっかり焦げてもいます。
揚げもかりっとしてます。

綺麗とは言えません。

リアルな美でしょうか。


明治維新の頃の日本の生活文化を
写真以上に写し取っているのではないでしょうかね。
湿り気や匂いまで感じれます。
絵の凄さですね。


これらの静物画は香川県の金比羅宮に収められ、
私もハルカスの金比羅コレクションで実際に目にしました。


私の好みは風景画です。
かなり以前に愛知県美でみたこの絵の色彩は今でも
よく覚えているほど、新鮮でした。

夕ぐれの風、温度、湿度を感じました。

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「不忍池図」1880

空の明るい青緑と雲の薄オレンジ色。
しっかりと洋画(バルビゾン派的)の技法を獲得したうえでの絵心。

木々の葉っぱと雲の同調した動きもここちいいです。



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「愛宕山より品川を望む」


東京湾が光輝いています!




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「山形市街図」1881-82

一点透視図をつかった市街図。
左右の建物の高さにちょっと曖昧な感じがありますが、

人々の往来に生き生きとした街の空気がよく表現されています。

いいですね〜。


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「酢川にかかる常磐橋」1881-82

主題である常磐橋を中心に飽きさせない構図を作っています。



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「江ノ島図」



風景画の最後にこれを、


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「本牧海岸」


それまでの茶色の陰の暗い江戸の絵のイメージから開放されます。

ここにいたってはうっとりとするような
自然の長閑さ、美しさを表現出来て、
なんでもない風景が宝石のように輝いています。



「洋画の父」と呼ばれる高橋由一も
その後日本画に受け継がれる歴史画も油で描いています。



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「日本武尊」


何と野太い!!





洋画の父
THE FATHER OF WESTERN STYLE PAINTING

高橋由一

でした。













by hamaremix | 2018-02-18 08:50 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(2)