人生の経験と追憶
とっても美しい言葉。
「一行の詩のためには、あまたの都市や、
人間や、事物をみなければならぬ。
あまたの動物を知らねばならぬし、
空飛ぶ鳥がいかに飛ぶか、
朝小さな花がどんな身振りで開くかを感じなければならぬ。
未知の国の道々や、期待していなかった出会いや、
ずっと前からそれがくるのがわかっていた別離を
詩人は思いかえすことができなければならない。
ーーーまだその意味がつかめづにいる少年時代の日々、
喜ばそうとして何かをくれたのに、それを手にしなかったために、そのこころを痛めさせた
両親のこと(他の子供だったら、きっと喜びを感じたことだったろう。)
多くの深い重大な病状の変化をみせる少年期の病気。
一室に静かに引き籠っていた日々。
海辺の朝。海そのもの。いろいろな海。
空の星とともに飛び去った高地の旅の夜。
これらのことを詩人は思いださなければならない。
いや、ただすべてを思いだすだけでは不十分である。
一夜一夜が前の夜と異なる愛の夜の記憶。
産婦の叫びの記憶。白衣のなかにぐったりと眠る産後の女の記憶。
詩人はまた死にゆく人の傍にいたことがなければならないし、
開いた窓がかたことと鳴る部屋での通夜もしたことがなければならない。
しかもこうゆう記憶をもっていることで充分ではない。
追憶が多かったら、これを忘れることができなければならない。
そしてそうゆう追憶が再び帰ってくるまで待つ大きな忍耐力をもたねばならない。
追憶はいまだほんとうの追憶になっていないからだ。
追憶がわれわれの身体のなかの血となり、眼差しとなり、表情となり、
名前のないわれら自身と区別のつかないものとなるまでは、、、
そして、その時に、
いとも稀なる時刻に、ひとつの詩の最初の言葉が、
それら追憶のまんなかに浮き上がり、
追憶そのものから進み出て来るのだ。」
『マルテの手記』リルケ
「ある絵の伝記」のベン・シャーンの引用から
by hamaremix
| 2018-11-19 22:29
| 哲学
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