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浜本隆司ブログ オーロラ・ドライブ

hammererix.exblog.jp

浜本隆司のブログ

横山大観

さて、
明治元年に生まれ、大正、昭和と生きた
近代日本絵画の巨匠

日本絵画の星-44(近代編)08

横山大観

(よこやまたいかん)1868-1958



先ずはこれ。


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「霊峰飛鶴」

私、当時(1967年)両親から切手を定期的にもらっていて、コレクションしていたので、
これも持ってました。
いや、今も持っています。

そう、富士山の絵、
描いたのが横山大観でした。

富士山に鶴、1967年当時
日本といえば「富士山」と「鶴」でした。



横山大観は「富士山の画家」というイメージが強いですね。

昔の社長室には「富士山」「赤富士」を飾るのがステイタスでした。
ちなみに車はクラウンみたいな。笑

当時「富士山」の絵の需要があまりにも多くあったそうで、
横山大観のパクリの絵も数えられないくらいあったそうです。
昔の、リサイクルショップにも富士山の絵が一杯あったように記憶してます。



当の横山大観も富士山ばかり描いてることを

「私は富士山をよく描く。今も時折り描いてゐます。恐らく、今後も描くだらうと思ひます。一生のうちに富士山の画を何枚描くことになるか、それは私にもわかりません。といつても、自分から進んでいつも富士山ばかり描くといふのではありません。富士山、富士山といつでも沢山持ち込んで来られるからです」


と言っています。


大観の富士山をちょいと見てみましょう。

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「雪富士」

いつの頃かは分りませんが、描きなれて
さらっと描いたものでしょう。


横山大観_d0218056_07124675.png
「群青富士」1917

な、、なんと、なんですか、この間の抜けた、、
いやいや、
いや、シンプルすぎる富士は、、、

逆に現代的かも。


デザイン化されているので、たぶん琳派を意識したのでしょう。




横山大観_d0218056_07161307.jpg
「霊峰不二山」1933


とっても落ちつきます。

こうゆう絵が飾れる別荘アトリエがどこか田舎に欲しいかも、、笑



横山大観_d0218056_07195220.jpg
「霊峰の秋」1940

1940年といえば、不穏な次代だったと思うのですが、
そんな時代の空気感はないですね。



そして1942年

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「神国日本」1942


この絵はタイトルからして日本礼讃の内容ですが、
1942年という年を考えると「裏戦争画」といえるかもしれません。

日の丸と富士


なにやらただならぬ気配を持った絵です。

私には飛んでませんが、鶴といった鳥ではなく
零戦が見えてきました。



横山大観_d0218056_07294311.jpg
「蓬萊山」1949


夜明けですね。




さて、今年は横山大観展(初秋・京都国立近代美術館)を見ました。

その時展示室最後に配された最晩年の大作2点「紅葉」「夜桜」は凄かったです。

ともに義務教育の教科書に載る日本を代表する作品ですが、

やはり美術は生ですね。

横山大観_d0218056_08044195.jpg
「紅葉(左隻)」

横山大観_d0218056_08051523.jpg
「紅葉(右隻)」


小さい画像で申し訳ないです。この絵です。

紅葉にこの青は普通持ってきません。
対比が強くなりすぎるからです。

でも、そこが絵のチャレンジャーだった大観、
豪快な対比で着物のような艶やかさを実現しました。





そして「夜桜」

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「夜桜(左隻)」


横山大観_d0218056_08081999.png
「夜桜(右隻)」



この絵のエピソードがあります。

大観は富田渓仙という画家の「祇園夜桜」という絵が気に入っていて、
それを手元に置いていたそうです。

その絵からイマジネーションをもらっていたのでしょうね。

そのイメージを自身の中で鮮明にすることで
名作が生まれました。



その富田渓仙の絵がこれ
横山大観_d0218056_08122783.jpg
富田渓仙「祇園夜桜」1921

こちらの方が落ちつきますね、、

しかも、
ほぼ一緒。

こうゆのは盗作とか、パクリとは言えません。

原形以上のものができた時、人はもう、言う言葉はないのです。
大観にはハレの感覚があります。


それに昔は、同じ画題、同じ設定て描くことの方が
普通だったからです。





さて、横山大観。

横山大観_d0218056_21284438.jpg
1868~1958

この豪快な感じの人。お酒の呑み方も豪快だったそうで、

人生後半の50年は飯をほとんど口にせず(たまに食べる時も一粒二粒と数えるほど)、

酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたという。

飲んでいた酒は広島の「醉心」で、これは昭和初期に醉心山根本店の社長・山根薫

知り合った大観が互いに意気投合し、

「一生の飲み分を約束」した山根より無償で大観に送られていたものだった。

しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたという。

代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、

醉心酒造に大観の記念館ができることとなった。ということらしいです。


wikiより



大観は東京美術学校(東京芸大)の1期生である。
岡倉天心、橋本雅邦らに学んでいます。

芸大受験期には狩野芳崖に学んだというから、キャリア的には王道を歩んでいます。

その若かりし頃の絵がこれ、

横山大観_d0218056_21385100.jpg
「村童観猿翁」

すごい描写力です、、また、明治20年代初期の時代感覚もわかって興味深い内容です。



芸大創業後の若い頃の有名作品がこれ

横山大観_d0218056_21434330.jpg
「無我」

、、、、、、、あほげな子ども?


この絵を理解するのはなかなか難しい、、



仏教用語に「無我」の境地ってありますが、
それを大観は子どもに見た
ということでしょうか。

確かに子どもの行動は何のいいとか悪いとかはなく、
自分のことさえ意識せず、
無心、無我だと言えるかもです。

ほら、こどもの描く絵は
褒められようとか、うまく描こうとかないですから、

子どもの描いて絵は無我の境地の産物と言えます。



もう一枚、これもとっても有名です。

横山大観_d0218056_21503108.jpg
「屈原」


中国の歴史上の人物、屈原を描いた歴史画

ですが、

この絵は岡倉天心を暗にイメージして描いたものとされています。




大観は大酒を呑みながらも90歳まで長生きしましたが、

半ばの50歳で描いた、私にとって興味深かったのがこの絵

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「千与四郎」

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「千与四郎(左隻)」1918

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「千与四郎(右隻)」


青い葉の植物に囲まれた構図が好きです。

深い緑の葉っぱとってもがいいです。


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「暮色」1922


朦朧体と揶揄された頃の絵です。



最後に大観が苦手だったされる人物画ですが、

横山大観_d0218056_22021891.jpg

それでも個性充分の作風ですね。






横山大観データ


横山大観は1958年2月26日(私の誕生日一年後)
に亡くなっています。
で、
その脳はとりだされアルコールづけにされ、
今も東京大学医学部に保管されるというエピソードもありました。


1868年(明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。

府立一中、および私立の東京英語学校学齢時代から絵画に興味を抱き、

洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。

1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。

東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける

(その期間は23か月程度だったと言われる)。


美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、

同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。

またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになった。

1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。

しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。

天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。


美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、

やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。

しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。

現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、

当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、

批判的に使用された言葉であった。

保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、

大観は春草と共に海外に渡った。

インドのカルカッタや、アメリカのニューヨークで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。

この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。

1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。

1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。


以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、

1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。

1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となった。

1937年(昭和12年)には、この年制定された第1回文化勲章の受章者となった。

同年、帝国芸術院会員となる。


戦後の1951年(昭和26年)日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。

大観は1958年(昭和33年2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した

大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。


































by hamaremix | 2018-11-17 08:17 | 日本絵画の星(近代編) | Comments(0)

by hamaremix