横山大観
日本絵画の星-44(近代編)08
横山大観
(よこやまたいかん)1868-1958
先ずはこれ。
「私は富士山をよく描く。今も時折り描いてゐます。恐らく、今後も描くだらうと思ひます。一生のうちに富士山の画を何枚描くことになるか、それは私にもわかりません。といつても、自分から進んでいつも富士山ばかり描くといふのではありません。富士山、富士山といつでも沢山持ち込んで来られるからです」
人生後半の50年は飯をほとんど口にせず(たまに食べる時も一粒二粒と数えるほど)、
酒と肴(少量の野菜)だけで済ませていたという。
飲んでいた酒は広島の「醉心」で、これは昭和初期に醉心山根本店の社長・山根薫と
知り合った大観が互いに意気投合し、
「一生の飲み分を約束」した山根より無償で大観に送られていたものだった。
しかし山根は年に四斗樽で何本も注文が来るので驚いたという。
代金のかわりとして大観は毎年1枚ずつ自分の絵を無償で送り、結果、
醉心酒造に大観の記念館ができることとなった。ということらしいです。
1868年(明治元年)、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。
府立一中、および私立の東京英語学校学齢時代から絵画に興味を抱き、
洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。
1888年(明治21年)、母方の縁戚である横山家の養子となる。
東京美術学校を受験することに決めると急遽、結城正明、狩野芳崖などに教えを受ける
(その期間は2、3か月程度だったと言われる)。
美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、
同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。
またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになった。
1896年(明治29年)、同職を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。
しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。
天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加した。
美術院の活動の中で、大観は春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、
やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する。
しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びた。
現在ではその画風を的確に表す言葉とされる「朦朧体」という呼称も、
当初は「勢いに欠ける、曖昧でぼんやりとした画風」という意味で、
批判的に使用された言葉であった。
保守的風潮の強い国内での活動が行き詰まりを見せ始めたため、
大観は春草と共に海外に渡った。
インドのカルカッタや、アメリカのニューヨークで相次いで展覧会を開き、高い評価を得た。その後ヨーロッパに渡り、ロンドン、パリ、ベルリンでも展覧会を開き、ここでも高い評価を受ける。
この欧米での高評価を受けて、日本国内でもその画風が評価され始めた。
1907年(明治40年)には、この年より始まった文部省美術展覧会(文展)の審査員に就任。
1913年(大正2年)には、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院の再興に至った。
以後、大観は日本画壇の重鎮として確固たる地位を築き、
1934年(昭和9年)に朝日文化賞受賞。
1935年(昭和10年)には帝国美術院会員となった。
1937年(昭和12年)には、この年制定された第1回文化勲章の受章者となった。
同年、帝国芸術院会員となる。
戦後の1951年(昭和26年)日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となった。
大観は1958年(昭和33年2月26日、東京都台東区にある自宅にて89歳で永眠した。
大観の永年に渡る日本美術発展への貢献により正三位に叙せられ、勲一等旭日大綬章を贈られた。