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浜本隆司ブログ オーロラ・ドライブ

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浜本隆司のブログ

「美術」のはじまり

今日は美術のお勉強です。

参考文献は「近代日本の画家たち」のなかのコラム
キーワードで見る近代日本絵画①
「美術とはなにか」
〜「美術」という概念誕生の背景〜


これ簡単にいうと「美術」という言葉がいつ誕生したか、
ということと、その時代背景を知ることです。


あっ、ここで無理な人はまた明日お越し下さいませ。笑


ではでは、読んでいきましょう。

絵や彫刻等を作り、観賞することは、いつの時代も世界のどこにでもあった
普遍的な営みかもしれない。しかし日本語の「美術」という言葉は、
それほど古くからあったわけではない。

ふむ。

初めて登場したのは、明治6年(1873)のウィーン万国博覧会に明治政府が参加する際、
ドイツ語のschone kunsteなどに相当する翻訳語として造語されたときである。

クンスト(芸術)ね。

ただ翻訳語として現れたばかりの「美術」は、詩や音楽を含めた「芸術」の意味に近かった。
また当時新奇だった「美術」は、美術下駄、美術傘といったように、
単にハイカラな流行語としても使われた。

はは、今の「アート」の言葉の使われ方に近いです。
何でもアートですから。

「美術」が今日のように造形芸術だけを示すようになったのは、やがて日本でも美術館や美術学校
といった近代社会の制度が整い普及するに至ってからである。
したがって、画家や彫刻家を含む「美術家」という存在もまた近代社会が成立する過程で初めて登場した。
かっては「絵師」や「仏師」などと称されていた。

武士や僧侶あるいは職人階級の作り手たちが、明治の世に移ってから、「画家」ないしは「彫刻家」
と呼ばれるようになったのである。
高橋由一の「丁髷姿の自画像」はその過渡期に奇妙さを象徴している。

油絵で描いた「ちょんまげの自画像」です。
元武士の画家は狩野芳崖、橋本雅邦もそうでしたね。
彼らは、明治維新で食いっぷちがなくなりました、、、

もちろん、造形技術の作り手たちが行なう内容自体は、「美術」が成立する前も後も大して変わっていない。
むしろ、過渡期に多くの画家たちがかっての身分であった武士の素養や意識をいくらか保っていたことが、
この時代の美術に特有の重々しさや厳かさを与えていたと言えるだろう。

もっとも出世した洋画家に黒田清輝や藤島武二らの旧薩摩(鹿児島県)出身の画家が少なくないのは、
「薩長土肥」出身者ばかりが優遇された明治社会の歪みも反映されているのだ。

う〜〜、政治的な人脈の繋がりは出世の大条件、、、

同じころ、過去の造形の営みを「美術」という新しい概念で捉えなおすことで、実証的な日本美術史を
形成する動きも始まった。アーネスト・フェノロサや岡倉天心らが奈良や京都の古社寺を訪れて、
調査のために秘仏の覆いを取った逸話は有名である。

この時に、仏像は信仰の対象から観賞の対象へ変わる道が出来たわけです。
また、日本人が作ってきたものを初めてカタログ的にピックアップされ始めたともいえます。

この蓄積を基に、明治33年(1900)のパリ万国博覧会のためにフランス語で最初の日本美術史が書かれ、
その後日本語で続々と美術史の大系が構築されるようになっていく。


歴史は作られる!です。


ただ、天心ら当初の美術行政を指導し美術史を作った人物たちは、当時も庶民階級の間で人気のあった
浮世絵や南画をあまり評価せず、書も美術のいちジャンルと認めようとはしなかった。

ヒエラルキーを作りたがるのは概ね上の人ですね。

彼らが西洋の油絵(西洋画)に相当する日本美術の中心に据えたのは武家階級の狩野派などによる絵画
であってそれを受け継ぐ美術機関として東京美術学校の日本学科を設立した。
今日、「日本画」と呼ばれる絵画は、さまざまな流派やかたちで展開した伝統的な平面表現のうち、
南画、浮世絵、書といったものを切り落とし、狩野派などを近代化するかたちで成立したまさに
新しい表現形式だったのである。


(足立元・あだちげん)


浮世絵を学ぶ学校作らなかったんですね、、
書に関しては、難しいですが、文字でありながら芸術的表現で高みにあるものも多いのですが、
能や文楽、浄瑠璃などと同じように伝統的な分野は民間の伝承に任されたという捉え方ができますが、
公教育からは排除されたんですね。




以上、ほぼ棒読みでしたが、なるほどがってんな内容だったのではないでしょうか。



きんこんかんこ〜〜〜ん



では、今日の講義(棒読み)はここまで。





























by hamaremix | 2018-09-23 09:06 | アート | Comments(0)