小野田直武

江戸時代の絵画のジャンルのひとつに「秋田蘭画」があります。

東北のあの秋田藩(当時は久保田藩)に
安永年間(1772年-1781年)に久保田藩で成立したが、
後継者もなく天明年間(1781年-1789年)には廃れた。
という約10数年の間に秋田の数人の画家によって
なされた画法なのです。


その代表的画家として、名前が取りあげられるのが秋田藩士小野田直武です。

日本絵画の星 28 小野田直武(1749-1780/江戸中・後期)

その小野田直武の秋田蘭画とはどうゆうものか?

こうゆうものです。

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「不忍池図」1770年代/秋田県立近代美術館



どうでしょう。

これまでに見たことの無い不思議な画風です。

平面的な日本画風の花に奥深い風景画が合わさったような〜〜〜〜〜


しかし、これ日本絵画史上とっても有名なんですよ。

さて、ここに描かれていた花は芍薬の花です。

その拡大図

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この芍薬の花の描き方こそこれまでの絵師のものとは変わらないようですが、
植木鉢の陰影のつけ方と地面に出来ている影には明らかに西洋絵画の
遠近法によって、実際に見えるように表現されています。

それとこの不忍池図という東京上野の池の表現の仕方は
あからさまに空気遠近法が使われて、
遠くが薄くぼんやりと、そして極端に小さく描かれています。

また画面右の樹の幹の表現にも明らか蘭画(西洋画)風です。

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そこでこの秋田蘭画とは、、、
「西洋画の手法を取り入れた構図と純日本的な画材を使用した和洋折衷絵画である。
秋田派ともいう。しかし、その極端な遠近法は後代の浮世絵にも大きな影響を与えたとされる。」

という遠近法の取り入れ方に後世に大きな影響を与えたことで
歴史的意味があったようです。



さて、この極端な遠近法を小野田直武はなんと平賀源内に習っているのです。

久保田藩は財政再建のための方策として鉱山開発に着目しており、
安永2年(1773年)7月、平賀源内を鉱山技術者として藩に招聘したそうです。

言い伝えでは、源内が酒造業者五井家に泊まった際、宿の屏風絵に感心した源内が
その絵の作者だという直武を呼び、「お供え餅を上から描いてみなさい」と直武に描かせ
てみせたところ、
二重丸を描いた直武に「それではお盆なのか餅なのか分からない」と言い、
即座に陰影法を教えたという。
このとき直武は24歳、それに対し源内は満45歳であった。そうです。



その平賀源内と通して小野田は杉田玄白の「解体新書」の挿絵をかくことになります。

挿絵と言っても、科学の本なので、見た目通りにか描ける描写力(デッサン力)が
必要だったのですが、源内は小野田直武の画力を信じたのでしょうね。

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「解体新書」絵師・小野田直武


さて秋田蘭画の担い手には第8代久保田藩主・佐竹曙山(さたけしょざん・1748~1785)もいます。


その藩主佐竹曙山の作品。
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「湖山風景画」1770

銅版画風ですよね。


後先になっていますが、前回の司馬江漢は小野田直武に絵を学んでいたのです。






秋田蘭画流行の背景には、徳川吉宗の蘭学奨励、当時の南蘋(なんびん)派の流行、
および博物趣味の広まりがあると指摘されている。
秋田蘭画も南蘋派の影響を受けており、その意味からは和漢洋の折衷体から
独自の境地を見出した画派といえる。
ウィキより

by hamaremix | 2017-03-07 17:41 | 日本絵画の星 | Comments(0)