狩野山雪
「松梟図」
松にとまった梟の絵。江戸初期の作品なんですが、
かわいい系ですよね。
昨日のお猿さんも同じ作者なんです。
「猿猴図」
おちゃめなセンスをもったこの方。
こんな水墨画も描いています。
「兄弟図」
タイトルは「兄弟図」???
何が兄弟かというとこの絵の
梅(上)と沈丁花(下)が兄弟だそうです????
ふふふん。
ちょっと面白い感覚ですね〜。
どうですかこの絵。
植物の絵にしてはちょっと硬いですね。
構図に垂直水平の意識が強いものです。
さてこの絵の作者はというと、、、
狩野山雪
このお方でした。
日本絵画の星 12 狩野山雪(1590-1651/桃山~江戸初期時代)
狩野山雪、、山に雪、、名前から涼しくシビアなイメージがわき起こりますが
後世の評は「奇矯・奇怪」みたいの狩野派の異端的存在として
見られているようです。
あんな可愛い動物を描いてるのに??
その異端ぶりはこの絵に一番現れているのではないでしょうか。
「老梅図襖」
ほぉ〜、何だか硬く激しいですね。
ここでも水平と垂直のラインが意識された構図で奇異です。
ですが老いた梅の巨木、
なお激しい生命力を放ちながら
梅の花を咲かせています、、
このような自然の形態からデフォルメしてこのように描く精神というのは
かなり普通では満足のいかない、ちょっと逸脱した(型にはまらないといった)
精神ではないでしょうか。
さらに今度は幻想的でもある作品です。
松の描写をよく見て下さいね。
「雪汀水禽(せっていすいきん)図屏風」右
「雪汀水禽図屏風」左
壮大です。そしてプロブレです、これは、、、
「春冬山水図」
泣かせます、、、、
これも、、
いいですね、ロードムービーっぽいです。
「長恨歌画巻」
狩野山雪は16歳で京狩野の狩野山楽の弟子になった人で、
早くからその才能が認められ、山楽の右腕となって大阪城の障壁画制作に従事したそうな。
朝顔です。
「朝顔図屏風」部分
「朝顔図屏風」部分
「朝顔図屏風」
最後はこれ
「梅に遊禽図」
狩野山雪
垂直・水平を強調した幾何学性の強い理知的な装飾と、
古画への深い造詣に基づきながら伝統的な画題を独自の視点で再解釈する
斬新な画面構成で数多くの作品を制作。
独自性が際立つ山雪の諸作品は近年、高い支持を集めており、再評価が進んでいる。
1590年(又は1589年)に九州肥前に生まれ、幼少期に父と共に大阪へ移住。
1605年(慶長10年)16歳の頃に狩野山楽に弟子入りし、同氏の許で修行時代を過ごす。
その後、山楽の娘である竹と結婚し同家の婿養子となる。
1631年(寛永8年)、初期の代表的な仕事である天球院方丈障壁画の制作に携わるほか、
同年、息子永納を授かり公私共に充実した日々を過ごす。
1635年(寛永12年)、師山楽の死去に伴い正式に家督と京狩野派を継ぐ。
以後、妙心寺、天祥院、東福寺などのための画作など、
京狩野において山楽時代からの重要な庇護者であった九条家の下で
京の重要な仕事に携わるが、
1641年(寛永18年)、探幽を始めとした江戸狩野派が手がけた
京都御所障壁画制作には参加せず、狩野一派の中で急速に地位を低下させる。
1647年(天保4年)九条家の支援で法橋位を授かり、一定の社会的地位を得るものの、
1648年から1651年の間に何らかの理由で拘置所に入れられる
(※これも九条家の尽力により特赦を受ける)など
晩年期は不遇な生活を余儀なくされ、
1651年に死去。
なお山雪が草稿を手がけ、息子永納が完成させた「本朝画史」は
日本最初期の画家列伝として知られる。 (ウィキ)
by hamaremix
| 2016-01-05 00:13
| 日本絵画の星
|
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