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浜本隆司ブログ オーロラ・ドライブ

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浜本隆司のブログ

カテゴリ:哲学( 23 )

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「ブルー・マウンテン」

死んだあと人間はいったいどこに行くか、という問題があります。

神道的な万葉人的な考え方からすれば、

落ちつくところは山頂です。

死後、山頂あたりに漂っている霊が、時がたつと

そこに鎮まってご先祖様になり、やがて神になるのです。

さらに時がたつと、

その神が一年のうち一定の期間を限って山から里におりてくる。

そこで降りてきた神様を里人たちがお祭りをする。

それが正月でした。


祭りが終われば、神はまた山に帰っていかれるわけです。


「日本のこころ、日本人のこころ」山折哲雄



これはあくまでも神道的、また万葉人が思っていた死者の存在の感覚だそうですが、

山からかけ離れた都会に住んでいる、われわれには

馴染みにくいのですが、

お正月やお盆、お彼岸には、
この世界の何処からかやってきてくれる感覚は受け入れているんではないでしょうか。

どこからかと言った場合、やはりどこか高いところだと思うのですが、

やはり日本列島内じゃないかなぁとは思います。


そうすると、近くではないにしても

この列島を覆う森林の何処か、、、

と思うのは自然なことのように思います。



浄土真宗では、阿弥陀仏に導かれて浄土に行ったということになり、
死んだ人(霊)などこのあたりには居ないはずなんですが、、、、笑



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万葉人的な考えというのは次のとおりです。

『万葉集』には多くの「挽歌」が収められています。
「挽」は「柩をつぐ」という意味で、つまり挽歌は死者を悼む歌です。
(〜中略〜)
それら挽歌を読んでいくと、ほとんどの挽歌の背景に共通の観念もしくは信仰があることに気づきます。

すなわち、「死んだ人間の魂は必ず高いところへいく」

というものがあります。高いところの代表といえば山ですが、

前述のように、日本列島はどこに行っても山があります。

その山を取り巻いている雲や霧に死者の魂がのぼっていく、

といった歌が圧倒的に多いのです。


その例として

青旗の木幡(こはた)のうえをかよふとは 目には見れども直に逢わぬはかも
(倭姫王/やまとひめのおおきみ)

  [山科の木幡の山の上をあの方の御霊が行き来しているのは、ありありと見えるのに、
   もはやじかにお逢いできないことだ]


隠口(こもくり)の泊瀬の山の山の間に いさよう雲は妹にかもあるらむ
(柿本人麻呂)
  [泊瀬のやまの稜線あたりに漂っている雲は、亡きあの方なのであろうか ]



「日本のこころ、日本人のこころ」山折哲雄






なぜ、このようなことに興味があるのかというと、

私は「人間が死んだら無に帰す」という考え方が好きじゃないからです。


神道的な「霊魂や魂が死んだ後も残る」といった考え方や

仏教的な「浄土に向う」という考え方に共感を覚えているからだと思います。

それを信じているか?と問われると、

信じているとまでは言えませんが、

これまで日本人が持ってきた信仰に追従したいということだと思います。



だから、日本人が死についてどう考えてきたかに

興味があり、また知りたいのです。



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「微意玉」
by hamaremix | 2017-01-06 10:26 | 哲学 | Comments(0)
命あるものは必ず死ぬ。
人間もいつか必ず死ぬ。

って人間なら誰でも当たり前に知っていること。

「限りある命、悔いのないように生きよう。」

って誰でも考えますよね。


人はいつか死ぬ。お迎えがくる。

なので、生きてる間にあせって何かをなそうとします。

若い時は命は永遠にあるようなイメージで生きてますが、

歳をいくと、死がどんどん大きくなってきます。



でも、動物はどうなんでしょう?


たとえば犬。

犬は自分が死ぬって分ってるのでしょうか?




多分、分ってないです。

自分より大きな犬が近づいてきた時に、本能的に身の危険を感じるとは思いますが、

寿命によって犬は死ぬんだ、ということは分ってないでしょう。



日々「死」をイメージすることはないと思えます。




同じように猫、鹿、猿、豚、鳶、鷹などの

動物は寿命を思うことがない。


だから、あんなにのんびりと、余裕を持って、
日々、何もなくても、退屈することなく、あきることもありません。

それは人間にはなかなかできないというか、無理なことではないでしょうか。

欲というものが、ないということでしょうか。

そりゃ、もちろん食欲と性欲はありますが、
これは外せません。

人間の欲は食欲も性欲もあって、それ以外にもたくさん沢山欲がありますよね。


仏教の根本的な考え方に、
「欲を棄てること」というのがありますが、

それは普通できることではありません。
修行に修行を重ねた、ある一定の人しか欲は棄てれません。


そう考えると、動物は人間よりもどうどうとしているし、
歳をとってもあせることもなく、
ゆうゆうと生きていると言えますね〜〜〜。



戦国時代の、忍者の理想的なこころのありように「流水」ということがあります。

これは忍者が仕事をする時に邪念が入っては、しくじったりして、ことを成す時に

迷いや雑念が入って失敗するので072.gif、過去にこだわらない、過去は絶えず

過去として忘れ、流してしまうという考え方です。



素晴らしいですね〜。


死のことは忘れてしまって、余裕もって生きたいものです。







無理でしょうね。笑







ではでは053.gif053.gifまた。
by hamaremix | 2016-10-06 23:09 | 哲学 | Comments(0)
超訳「ニーチェの言葉」
これがあれば、他にどんな啓発本ももう要りませんよ。
笑、ホント。


123 勝手に行為の大小を決めつけない

「人間とは不思議なもので、勝手に行為に大小をつける。
大きなことをした、とか、小さなことしかできなかった、などと決めつける。

もっと不思議なことがある。人間は、自分がしなかった行為を悔いる。
しなかった行為なのに、あれは大きなことだったと本気で思い、
悔やんだりする。また、自分のした行為、自分のしなかった行為の大小を、
自分が決定できると思い込んでいる。
その大小が真実だとさえ思っている。

自分のした小さな行為が、実はある他人にとっては大きいことかもしれない。
その反対かもしれない。
いずれにしても、過去の行為を価値づけることは無意味なことなのだ。」

『悦ばしき知識』



よくあります。
なんか価値のあることをしたいとつい思ってしまいますよね。
私の場合、絵に対してがそうです。
このテーマは大きいぞ〜、とかまぁ軽い感じで描いたとして小さく見てるとか、

自分のなかで、まあまあかななんて思っている作品でも、
凄くいいと言ってもらったりすることがあります。
また頑張っていいのが出来たなぁなんて思っても、
他者からみたら、あんまり良くなかったりすることがあります、、、、




むむむ、あまり適切なコメントではありませんでした、、、、

物事の価値の大小を考えず、その時その時、自分のやるべきことに、
一所懸命であれ!ってことですよね。

それ大事ですよね、、

何処かで手を抜いてると、
他で手を抜いてはいけないところでも、
抜いてしまってるみたいなことになるような気がします。
by hamaremix | 2016-02-22 21:22 | 哲学 | Comments(0)
生きることが苦悩である(苦諦)とは、
“思い通りにならない”ということです。

そこで、苦悩が生起するメカニズムヲ知り、
苦悩を解体するための実践道を説きます。

その実践道(道諦)は<八正道>として表現されます。

その八つの正しい道程とは、

「正見(正しいものの見方)」
「正思(正しい思考)」
「正語(正しい言葉)」
「正業(正しい行い)」
「正命(正しい生活様式)」
「正精進(正しい努力)」
「正念(正しい記憶)」
「正定(正しい瞑想)」

だそうです。

では、ブッダが考えた「正しさ」とは一体どのようなものだったのでしょうか?
1、妄見(自分の都合によって認識がゆがめられる。)から離れる。

2、転倒(きちんとしたメカニズムを理解しない)を離れる。

3、「極端を離れる」

このような姿勢を「正しい」と考えたようです。

つまり、八正道の「正しい」というのは、偏りのないことを指します。

これが<中道>ですね。
<中道>のなかでも特に苦楽中道といわれるところです。
「ひとつのことにこだわって、もうひとつをおろそかにしてはならない」、
これが<中道>です。

「いきなりはじめる仏教生活」釈徹宗



長い引用でしたが、

苦悩が生起するうんぬんより、人間として

ちゃんとしたいという内容の話でした。
by hamaremix | 2015-06-02 22:54 | 哲学 | Comments(0)
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「世に棲む日々」司馬遼太郎1〜4巻を2ヶ月かかって
やっと読み終えました。

まーなんと遅いスピードの読書であることでしょう。笑





内容の舞台は幕末の長州藩で、
吉田松陰(寅次郎)の一生から
吉田松陰を師とする高杉晋作の若き日の死ぬまでの活躍が書かれてます。
時代的には
幕府の第2次長州征伐を跳ね返してしまうまでですね。


以前に少し書きましたが、吉田松陰のことが書かれている1巻
その後高杉晋作、伊藤博文、井上馨らが登場する2〜3巻までは、
長州藩の攘夷や開国、その時々の揺れ動く
藩の体制と権力争いの流れが複雑なこともあって、
その流れを追って説明する描写が
教科書的なところも多くて、読むのがつらいこともありました。

それが、4巻の高杉晋作個人の生き方に焦点をしぼって
書かれるようになって、
生き生きとした晋作像が浮かび上がってきました。


それからが、司馬遼太郎小説の醍醐味を味わえました。


高杉晋作の有名な辞世の歌

おもしろき こともなき世を おもしろく

やはりこれがいいです。



高杉晋作は毛利藩の高級武士として生まれながらも、
その一生は一書生、あるいは浪人的な立場に好んで落ちていたようです。

新しいことを始めて、それがうまく行くまでは熱心に関わるけれど、
活動が安定して自身もその管理や権威を持つような
立場を与えられても、
すぐに在野に降りてしまうことがたびたびです。

おもしろく生きたということは、
そんな落ち着いた役職で安定するより、
変革の時代にあっては、
その変革の可能性のあることはなんでもやったということを
言ったのでしょうね。


歌が好きで
ばか騒ぎが好きで、家庭の安定にとどまることをしなかった
行動しながら考える革命家。
また、人にインパクトをあたえることを容姿でも工夫した
パーフォーマー、
けれど、親や藩主には忠義を決して破らない、
温かくの面白い行動の人、

それが高杉晋作でした。





つい日常のこまごまとしたものに
惑わされてしまう自分の戒めに
吉田松陰〜高杉晋作のこの物語があったようです。





by hamaremix | 2015-02-10 23:06 | 哲学 | Comments(0)
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年寄りになったからって、賢くなるってもんじゃありませんよ。
用心深くなるだけですよ。

ヘミングウェイ

知らず知らずになぁ〜。



今私の一番好きな仕事といえば、夜空を眺めることです。
なぜって、この地上から、また人生から眼をそらすのに、
これほど良い方法があるでしょうか。

トーマス・マン

2次元の世界にどっぷり、音楽聴いたり、本読んだり、
ほとんど眼をそらせてるかもです。汗






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仕事が楽しみなら、人生は極楽だ!
仕事が義務なら、人生は地獄だ!

ゴーリキィ

義務でない仕事って、そうあるものではないでしょうが、



幾つかの偉大な思想だけは、本当に自分のものにしておかなければならない。
明るくなるなるなどとは思いも及ばなかった
ところまで、それが光を投げてくれるから。

ジンメル

視野を広く持ちたいものです。
出来れば途方もなく広く。笑






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人生というものは、通例、裏切られた希望、挫折させられた目論見、
それと気づいたときにはもう遅すぎる過ち、
の連続にほかならない。

ショーペンハウエル

人生の暗い一面ですね〜。



人生には一度か二度こうゆう窮地がある。
そのときにな、どうするかが、
英雄と凡人とのわかれめだぞ。

斉藤道三/司馬遼太郎

窮地、、すでに何回もありました。
凡人の対処しかできないよ〜。



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笑いによる攻撃に立ち向かえるものはなんにもない。
だのに、君たち人間は、いつも笑い以外の武器を持ち出しては、
がやがや戦ってるんだ。

マーク・トウェイン

いつも笑いを上手く使える人はえらいなぁ。



日々の生活こそは凡てのものの中心なのであります。
またそこに文化の根元が潜みます。
人間の真価は暮らしの中に、
最も正直に示されるでありましょう。

柳宗悦

そろそろきちんとしなければ、、、










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子どもを不幸にするいちばん確実な方法はなにか、
それをあなたがたは知っているだろうか。
それはいつなんでも手に入れられるようにしてやることだ。

ルソー

貧乏な家に生まれたこどもは幸福になれる?


鮎は瀬につく鳥は木にとまる、
人は情けの下に住む。

山家鳥虫歌

fumu







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あ〜、おまえはなにをしに来たのだと・・・・
吹きくる風が私に云う。

中原中也

絵を描きにきました。




議論なんか、いくらしたって物事がはかどるもんじゃありません。
行なうべし、言うべからずですよ。

モリエール

今の過半数による可決方式の議会って、
日本人に向いてないような気がしてきました。


申しておきますが、思索などやるやつは、悪霊に
引きまわされて枯野原のなかを、ぐるぐる空回りしている家畜みたいなもんです、
その外側には立派な緑の牧場があるというのに。

ゲーテ



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夕映えが美しいように、老人の場所から見た世界は美しいのです。

伊藤整

わかるなぁ。ww


一度とにかく顔を合わせて、ある程度まで心を触れ合ったどうしが、
いったん別れたが最後、同じこの地球の上に呼吸しながら、
未来永劫またと邂逅(めぐりあ)わない・・・
それはなんという不思議な、さびしい、恐ろしいことだ。

有島武郎

生きているのか、もう死んでいるのかも・・・

by hamaremix | 2014-09-15 07:19 | 哲学 | Comments(0)
「書は人なりといわれ、書を見ればその人がわかるという。
その人の境涯がわかるということであって、性格であるとか、
癖であるとかいうものにとどまらず、
もっと人間として深いところのもの、人間として生きてることの深さ、
それがわかるというものである。ということは、
書を書くことによって自らの生きざまを自ら作品に問うことができるわけである。」

原田正憲/「孤」原田正憲の書

書家原田先生の言葉です。

先生の書を感じ、先生の言葉の意味を理解しようとし、
何度も書集を開いていました。

沢山に先生の言葉が残されていてそれを読むと
書だけでは分からなかったはずの、先生の書に対する考え方が
知れることになりました。

先生の言葉の意味のどれほどのものを私が理解できているのかは
わかりませんが、私のこころに刻み込まれた
いくつかの言葉がありました。

そのなかのひとつが上に引用した言葉です。

なかでも
「人間として生きてることの深さ、それがわかるというものである。」

という一文が、時々私の頭の中に浮かび上がってくるようになりました。

私は人間として深く生きているのであろうか?
深く生きるとは?

疑問が持ち上がってきました。



人生というのは、
生きている間にこの目で色を見、この耳で音を聞き
鼻で香り、口で味わい、それをどのように身体で感じるかということが、
基本であるならば、

私は
この5感を通して感じるこの世界を先ず、じっくり味わう。

その味わい方が深く味わうということに転じて、
「生きてることの深さ」に繋がるのではないかなという
仮説をもつことにしました。

これからはそのことを、頭においていこうと思いました。

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「信」原田正憲
by hamaremix | 2014-09-04 06:59 | 哲学 | Comments(2)
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アトリエの前庭の紫陽花が開花しました072.gif072.gif072.gif

母が育てたものですが、そのまま引き受けて
頑張って育ててます。

ちょっと変わった種です。

星のような、金平糖のような、また花火のような花が
楕円形を描いて咲きます。

何か宇宙的なものをこの花から感じています。


紫陽花はその品種が3000からあるらしいです。
なので、この紫陽花の品種名がずっと分らないでいたのですが、
今日facebookにあげてみたら、
ある人が これは

ダンスパーティーという名の品種だと教えてくれました。

意外なネーミングだけど、
私的にはそれはそれで素敵だと思うので、
嬉しい発見でした。



ダンスパーティー☆☆☆☆☆




今日の朝はトニー・スコットのことを取り上げて
境地について書きましたが、

私たちは年を重ねるごとに
どのようになればいいのか?
ということを考えるのが、近年の私の裏テーマみたいなってます。

表のテーマは、どのような作品を描いて行くかという
ことで、こちらに関しては、私が成すべきことは割合はっきり見えています。
迷いはないです。

でも、裏テーマの「どのような人間になるべきか?」
つまりどんな境地を目指すのか、といことについては
まだよく分っていません。


この歳になってオイオイって感じですが、

そうゆうことを書いたエッセイや啓発本などもあるのでしょうが、
そんな知識として知るということよりも、
私自身の経験のなかから、
こうだという、閃きの回答が出てこないことには、
納得できない感じがしています。

それがまだないので、
今は自分が欠点だと思うことを
直すようにはこころがけているのですが、
それが、先ずなかなか難しいですね。

何か、時々やる失敗は
やはり同じ根からくるものだと感じるからです。



日々、修行ですね。


頑張ろう!
by hamaremix | 2014-05-31 21:55 | 哲学 | Comments(3)
雨雲の隙間から、澄んだ冬の青空と白い雲がのぞけたとき、
「青空がこいしいなぁ」ってさっき思いました。


ところで土曜日の午前中というのは
セールスの訪問や電話が多いですよね。

この寒い中
今日も
ピンポン〜〜〜
「どうせセールスやろうな、」と思いつつ
近所の方がなんかの用事で来られたのかもしれない、
と考えて
ドアを開けると30くらいのお兄ちゃんが、
何やら腕に抱えて、
「富山の置き薬ですが。」
ときた。

すかさず
「あ〜、私、身体だけは丈夫でクスリいらずなんです。」
と言うと
「それは、いいことですね〜。でも、そういったご家庭の方にも
災害の時の緊急のために置いてもらってます。
お代は使っただけなので、置いておくだけでもどうでしょう。」
とクスリの数種が入った簡易パックを見せてくる。

この寒い中、大変だなぁ、
と一瞬思ったものの、
「今はものを棄てる方向で掃除しているので、要りません。」
というと
「置くだけでもだめですか?」
「いや、大丈夫です。」と断った。

明らかに残念そうな顔をして、立ち去っていきましたが、
その「残念そうな顔はいかんだろう。」とこころで思いました。

そこは明るく「お時間を頂きありがとうございました。」
と笑顔で退散して欲しかった。


そして30分程して、またピンポンがなる。

「セイールスだろう。」
と思いつつ、近所の人かもしれない、
「は〜い」って出ると。

同世代ぐらいのおばさまがパンフレットを手に
「最近ぶっそうな事件んが多いですが、
ここ辺りは大丈夫ですか?」とぶしつけに聞いてくる。
「静かなものです。」
「それは、いいですね。
今、地球は世界的に悪い時代に入って来てるのですよ〜、」
「はぁ〜」
「で、この世界は誰の支配にあるのかご存知ですか?」
といきなり大きな哲学的命題を問うてこられる。

私は
「あなたのいう世界とは、どの世界のことを指しておられるのですか?」
とこころに返し質問が浮かんだのですが、
長くなる〜と思い、
その質問はやめて、
「いや〜、わかりませんが、
うちは門徒なので、、、」
と一応本当のことを告げると、「あ〜そうですか、
でもどのような方にでも知って頂きたいことがあるので
これをごらんになって下さい。」
とキリスト教関係のパンフを置いていかれました。

神様の話はしてみたい気もするのですが、
絵を描いていたので、長くなると思いやめました。




宗教的布教目的ではなく、
哲学的論議や芸術談義のために人が尋ねてきたら、
お茶でもだして、喋ってもいいのですが、
そうゆう人は居ませんよね。


「あなたは絵を描いてらっしゃるけれど、
それは世界とどう関係づけられるのでしょう?」
「さぁ、まず、自分にとって世界というか社会と結びつく
私のとって最もやりやすい方法だから、私と世界がそこで関係ずけられてます。」

「それはどのような関係ですか?」
「う〜ん、私が描くイメージによって、見る人のこころにそのイメージが繋がる
というような、絵の持つ本来の力によるイメージの共有って関係ってことですかねぇ」

「では、あなたとあなたの作品を見る人との関係はどうゆうものですか?」
「絵を描く人と見る人です。」
「それは物理的なことでしょうが、なにか精神的に関係がそこにあるのでしょうか?」
「もちろんあります。」
「どんなことですか?」
「あなたは私に質問ばかりしていますが、少しあなたも自分のことを語って下さい。?」

「そうですね、私が自分のことを語らないのはフェアーではないですね。
失礼しました。私は大学で哲学を教えているものですが、
特に幸福論について研究しています。」

「幸福論ってどうゆうものですか?」
「それは、ひとことでいうのは難しいのですが、あえて言いますと、
『現代において人はどのような考え方や生き方をすることが、
真の幸福につながるか』ということ主な命題として、
古今東西、いろんな人の考え方や生き方を研究しているのです。」
「ほ〜。それはまた、大きなしかし意義のある研究ですね〜。」
「いや、私自身が、現代における幸福にいたる道がまだ結論づけられてないので
まだ意義ある研究とは言えないのですがね。」

「ではあなたは何か信仰はされているのですか?」
「特定の宗教にはありませんが、信仰心はあるといえます?」
「それは特定の神や仏とかいったものは信仰していないということですね。」
「そうゆうことになります。しかし、現在ある宗教の神というのは
ある偶像によってなりたっていますが、それは
銘柄は違うけれど、中身は実は同じ紅茶みたいなもので、
キリストや仏陀やアラーと銘柄はあるのですが、
神というのは本来は同じものではないかということです。」
「神を紅茶に例えるとは、ユニークですが、、
おっしゃってることは理解出来ます。」
「日本は八百万の神が居ると言われますが、
それも本当はひとつの神のことで、
日本ではひとつの神様が八百万の姿に化身して現れてると私は考えています。」
「化身ということであれば、それを沢山の神が居るとしか
人間には捉えられないのではないでしょうかね。」
「はぁ、それもたとえばAKB48という沢山のアイドルが居る
チームがありますが、アイドルということで言えば、それはひとつということです。」
「よくわかりません。」

「だから、六甲の美味しい水が水であるなら、
エビアンも日田天領水も水ですよね。多少の成分は違っていますが、
水は水です。」
「確かに!」
「ミニチュア・ダックスフントもチャウチャウも犬ですよね。
姿かたち、出生は違っても犬は犬なんです。
そうゆう意味で、私はいろんな神が居ますが、特定の神を信仰しているのではなく
神というものを、わりと疑っていない。というスタンスなんです。」


「では、私からお聞きしますが、あなたが研究なさってる幸福論に
信仰というか神の存在はどのようになるのでしょうか?」
「いい質問ですね〜。」
「いや、普通の会話の流れだと思いますが。」
「まぁ、そうですね。そのことについてお話しましょう。
人類はこれまで、世の西洋東洋を問わず、
ある信仰の世界にありました。キリスト教であり仏教であり、
ヒンズー教しかりまたイスラム教しかりです。
しかし、19世紀以降は科学的な目というものが人間にそなわってきました。」
「歴史ですか、」
「そうです、科学的な目というのは科学的な考え方および視点ということですが、
それはどうゆうものかというと、「科学的でないものは間違いである」という立場
をとるということです。」
「それが、真実とされています。」
「そこでは神様の存在というものが全くもって怪しいものとなりました。
目には見えないし、カメラに写らないし、顕微鏡にも写りません。
そんな、存在しないものは、事実とされないのです。
今はそうゆう科学的な時代なのです。」
「確かに、しかし物理的に存在しないからといって
それが無いとは言えないのではないでしょうか?科学だって発展途上ではありませんか?
神様がまだ見つけられていないという可能性だって否定出来ません。
否定出来ないと言わないと、科学的には正しい言い方じゃないのではないですか?」
「科学では今、無いものは『ない』のです。」
「では、そのうち神様が発見されることもあるかもしれませんね。
大黒さまや地蔵さん、大日如来が発見された!とニュースになるやもしれません。」

「はは、ないかもしれません。もう少し、真面目に討論しましょう。」



みたいな、お話、

「訪問討論」ないですね。笑



ではでは、もうすぐクリスマスです。
by hamaremix | 2013-12-21 17:47 | 哲学 | Comments(2)
今日の文章は私が昨日今日接した文章で、
こころにとどめておきたいもののメモです。


「もの」即ち霊魂について、小泉八雲は、日本人の祖先崇拝に関する
興味深い説を述べている。祖先崇拝というものは自分の霊の中に様々
な祖先の霊がいるということである。個人はただ単に単一な自我を持っ
ているのではなく、その個人の中に祖先の霊を初め様々な霊が存在し
ているのである。それ故人間というものは「複合的な自我」として捉
えられなければならない。

小泉八雲によればこれこそ最近の哲学者ハーバート・スペンサーの説
と一致するものであり、また「進化論」とも矛盾しない。「進化論」
は人間が直接的に猿、間接的には多くの動物から進化したものである
ことを証明した。つまりそれは八雲流の言い方をすれば、今の人間の
魂の中に様々な祖先の魂が、あるいは人間の祖先を超えて猿や他の動
物の魂が、宿っていることになろう。

「もののかたり」梅原猛



すでにここにおいて、賢治は明治以来の大多数の日本の文学者と世界
観を異にする。明治以後、多くの日本人はヨーロッパ的世界観を受け
入れる。そして自然を物理的化学的物質としてみる。物質でないもの、
それは人間であり、人格である。その人格を大切にせよ、物理的化学
的な物質主義と人格主義的な人間主義、それが近代人の世界観であり、
人間観である。そこで私は、一個の人格であるか、それとも物質の集
まりであるかである。
こういう世界観、人生観に賢治は否という。
人間は物理的化学的な物質でもなく、人格でもない。人間は、自然の
大生命のあらわれのひとつにすぎない。人間の意識といえども、自然
の大生命の自己意識にすぎない。自然の大生命は、大きな流れである。
その流れはいくつかののおのれ自身をみる眼をもつ。それが人間や動
物の意識である。

「修羅の世界を超えて(宮沢賢治)」 梅原猛




自然のなかにあるすべてのものは、はかない生命である。すべてはす
ぎさる。しかし、まことの力があらわれるとき、そのはかない生命が、
そのまま限りないいのちである。
瞬間のなかに無限に光輝く生命がある。その無限に豊かな生命を生きる。
ただいまの瞬間に全宇宙の生命が、生きられるのである。

「修羅の世界を超えて(宮沢賢治)」 梅原猛
by hamaremix | 2013-10-06 23:28 | 哲学 | Comments(2)