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浜本隆司ブログ オーロラ・ドライブ

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浜本隆司のブログ

谷文晁

日本百名山のルーツのような本
「日本名山図譜」
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作者は旅好きで30代になるまで日本全国をさかんに旅し、
各地の山を写生した谷文晁です。

そのなかの富士山。

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日本絵画の星 20 谷文晁(1763-1840/江戸中・後期)

40才ころと思われる谷文晁
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最晩年の谷文晁
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谷文晁は1788年に田安徳川家に仕宮し、松平定信に認められました。

そして1793年に松平定信の海外防備のための伊豆巡視に随行した文晁
現場で風景を記録するように命じられます。
それをまとめたものが「公余探勝図」。

ここでの画風は西洋絵画的遠近法と陰影法を取り込んでいて、
これまでの日本の絵の歴史になかった写実性をもっています。
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「公余探勝図」
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「公余探勝図」
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「公余探勝図」
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「公余探勝図」

新しい視線をびしばしと感じますし、絵心も感じわくわくします。

この他にも定信の命を受け、古文化財を調査し図録集『集古十種』や『古画類聚』の編纂に従事し
古書画や古宝物の写生を行ったり。
また「石山寺縁起絵巻」の補作を行ったりしている。
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「石山縁起絵巻」
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「石山縁起絵巻」


谷文晁の画風は彼の学びの歴史からして、
様々の技法を折衷していると考えられます。


参考にウィキより、

12歳の頃 父の友人で狩野派の加藤文麗に学び、
18歳の頃 中山高陽の弟子 渡辺玄対に師事した。
20歳のとき文麗が歿したので北山寒巌 につき北宋画を修めた。
その後も狩野光定から狩野派を学び、
大和絵では古土佐、琳派、円山派、四条派などを、
さらに朝鮮画、西洋画も学んだ。
26歳の時長崎旅行を企て、 大坂の木村兼葭堂に立ち寄り、
釧雲泉より正式な南画の指南を受けた。
木村蒹葭堂の死後、その死を悼み遺族に肖像画を贈っている。
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「木村蒹葭堂像」谷文晁
長崎に着いてからは張秋谷に画法を習い一月余り滞在した。
古画の模写と写生を基礎にし、諸派を折衷し南北合体の画風を目指した。
その画域は山水画、花鳥画、人物画、仏画にまで及び画様の幅も広く
「八宗兼学」とまでいわれる独自の画風を確立し、
後に 関東南画壇の泰斗となる。



こうゆう所から、とらえどころの難しい絵師だと感じます。

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「猫蝶画服」


谷文晁さん、富士山が大好きだったそうです。。。


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「富士山図屏風」
by hamaremix | 2016-06-22 23:09 | 日本絵画の星 | Comments(2)
Commented by yuurakuotozaemon at 2016-06-25 19:46
こんばんはです、この海辺の絵が既成概念がなくて
良かったと思います
Commented by hamaremix at 2016-06-26 08:55
ソウデスネ〜、既視感が全くない絵で、谷文晁のクリーンな眼差しを感じます。