狩野探幽
狩野探幽と言えば二条城の障壁画が一番に思いうかびます。
松鷹図/二の丸御殿
狩野永徳程の力の誇示はなく、
ゆったりとした安定感がある絵です。
この二条城の障壁画が完成したのが1626年の三代将軍家光の時代で、
世の中が、安定してきたことが反映しているのでしょうね。
同じく二条城の絵
松に孔雀図壁貼付・襖
この金地に松の葉の緑、そして太く天に左右に伸びる枝の茶色。
江戸時代を印象づける配色ですね。
日本絵画の星 13 狩野探幽(1602-1674/桃山~江戸初期時代)
私はある年の夏、二条城に4度も通いました。
スケッチの許可をもらう為でした。
で、その頃は龍馬伝にはまっていた時期で、
ここが慶喜が大政奉還を宣言したお江戸の京での本丸かぁ~
という感慨が強く、
狩野派などの絵を熱心にみる眼も意識もなかったのです。
が、さすがに壮大な障壁画群は大いに記憶に残っています。
二条城の障壁画、これを引き受けたのが江戸狩野派の狩野探幽でした。
狩野探幽像/伝桃田柳栄
狩野探幽は狩野永徳の孫です。
永徳が秀吉なら、探幽は家康か?はは、
というのも明治期に岡倉天心をして「画壇の家康」と言わしめたほどの
江戸狩野派の創始者ですからね。
16歳で江戸に召されて幕府の御用絵師になったというから、
その絵の才能は狩野家でも飛び抜けたものが見られたようです。
22歳で大阪城(徳川の)の障壁画、25歳で二条城の障壁画、
32歳で名古屋城本丸上洛殿の水墨障壁画を担った。
大阪城の障壁画はもちろん残っていません。
しかし名古屋城の本丸上洛殿の水墨は残っています。
こちら狩野探幽の代表作としてよく取り上げられています。
雪中梅竹遊禽図襖/名古屋城
この絵に特に現れているのが探幽様式といわれるものです。
あっさりしてます。
その探幽様式とは、この絵のように充分な何も描かれない余白があることなんです。
そして永徳がやったような、画面から飛び出すような構図ではなく
画面の空間内に構図を収めるところにあります。
四季松図襖/大徳寺
人間の一生を松に四季にたとえたという見方もできるこの絵。
あまりにも余白が多すぎます。
絵がなりたつギリギリのところでこの絵をおえているようです。
この絵などは、マンネリズムと見ても問題ないような内容です。あっ、暴言
しかし、この絵もマンネリズムにいたったような様相です。
桐鳳凰図
狩野探幽35歳の大作。すごいです、充実してます。
京都花園にある臨済宗妙心寺派大本山の法堂の天井画、
「雲龍図」
最大辺12メーターです。制作には8年かかったそうです。
半端ない迫力です。
さて、狩野探幽から始まる江戸の狩野派ですが、
江戸時代の250年近く通して御用絵師であったのです。
その狩野派の特徴といえば、
1狩野家の血縁で結ばれた集団であったこと。
2絵師の専門集団だったこと。
3つねに幕府の仕事に従事していたこと。
そして特に
4粉本主義であったことです。
その粉本主義というのは師匠のお手本(粉本)以外の絵を描かせず、
それまで築いてきた狩野派の画風を守っていくことでした。
これでは、絵師の独創性や個性というのものが封じ込まれ、
写しに写しが繰り返され、つまらない形骸した絵になっていったという
風評になってしまいました。
粉本主義は何も狩野派に限ったことでなく、
淋派、円山派、土佐派といった、絵師の集団経営には
欠かせないものだったようですが、、、
ところで狩野探幽は
1656年の江戸大火で家を焼いてしまい、
重要な粉本を失ってしまいました。ピンチデス。
で、狩野探幽は粉本をとりかえすべく
古画の模写や鑑定を積極的に行い、縮図として描きためた。
また、写生も草花・鳥類・風景とさまざまなジャンルに触手を伸ばして描いた。
それは膨大な量で、美術史的に注目されはじめているようです。
その写生の1枚が有名なこれ。
獺図
かわいいですね〜、しかもよく描けていますね〜。
そしてそんな探幽ですから、絵の内容も多岐にわたったようです。
源氏物語から、、
賢木・澪標図屏風
いにしえの三十六歌仙を描いたものから、、
柿本人麻呂像
水墨画も極めています。
叭々(はは)鳥・小禽図屏風
富士山図屏風
薄味、、、粋、、、
1662年狩野探幽は画家としての最高位である法印を与えられました。
松鷹図/二の丸御殿
狩野永徳程の力の誇示はなく、
ゆったりとした安定感がある絵です。
この二条城の障壁画が完成したのが1626年の三代将軍家光の時代で、
世の中が、安定してきたことが反映しているのでしょうね。
同じく二条城の絵
松に孔雀図壁貼付・襖
この金地に松の葉の緑、そして太く天に左右に伸びる枝の茶色。
江戸時代を印象づける配色ですね。
日本絵画の星 13 狩野探幽(1602-1674/桃山~江戸初期時代)
私はある年の夏、二条城に4度も通いました。
スケッチの許可をもらう為でした。
で、その頃は龍馬伝にはまっていた時期で、
ここが慶喜が大政奉還を宣言したお江戸の京での本丸かぁ~
という感慨が強く、
狩野派などの絵を熱心にみる眼も意識もなかったのです。
が、さすがに壮大な障壁画群は大いに記憶に残っています。
二条城の障壁画、これを引き受けたのが江戸狩野派の狩野探幽でした。
狩野探幽像/伝桃田柳栄
狩野探幽は狩野永徳の孫です。
永徳が秀吉なら、探幽は家康か?はは、
というのも明治期に岡倉天心をして「画壇の家康」と言わしめたほどの
江戸狩野派の創始者ですからね。
16歳で江戸に召されて幕府の御用絵師になったというから、
その絵の才能は狩野家でも飛び抜けたものが見られたようです。
22歳で大阪城(徳川の)の障壁画、25歳で二条城の障壁画、
32歳で名古屋城本丸上洛殿の水墨障壁画を担った。
大阪城の障壁画はもちろん残っていません。
しかし名古屋城の本丸上洛殿の水墨は残っています。
こちら狩野探幽の代表作としてよく取り上げられています。
雪中梅竹遊禽図襖/名古屋城
この絵に特に現れているのが探幽様式といわれるものです。
あっさりしてます。
その探幽様式とは、この絵のように充分な何も描かれない余白があることなんです。
そして永徳がやったような、画面から飛び出すような構図ではなく
画面の空間内に構図を収めるところにあります。
四季松図襖/大徳寺
人間の一生を松に四季にたとえたという見方もできるこの絵。
あまりにも余白が多すぎます。
絵がなりたつギリギリのところでこの絵をおえているようです。
この絵などは、マンネリズムと見ても問題ないような内容です。あっ、暴言
しかし、この絵もマンネリズムにいたったような様相です。
桐鳳凰図
狩野探幽35歳の大作。すごいです、充実してます。
京都花園にある臨済宗妙心寺派大本山の法堂の天井画、
「雲龍図」
最大辺12メーターです。制作には8年かかったそうです。
半端ない迫力です。
さて、狩野探幽から始まる江戸の狩野派ですが、
江戸時代の250年近く通して御用絵師であったのです。
その狩野派の特徴といえば、
1狩野家の血縁で結ばれた集団であったこと。
2絵師の専門集団だったこと。
3つねに幕府の仕事に従事していたこと。
そして特に
4粉本主義であったことです。
その粉本主義というのは師匠のお手本(粉本)以外の絵を描かせず、
それまで築いてきた狩野派の画風を守っていくことでした。
これでは、絵師の独創性や個性というのものが封じ込まれ、
写しに写しが繰り返され、つまらない形骸した絵になっていったという
風評になってしまいました。
粉本主義は何も狩野派に限ったことでなく、
淋派、円山派、土佐派といった、絵師の集団経営には
欠かせないものだったようですが、、、
ところで狩野探幽は
1656年の江戸大火で家を焼いてしまい、
重要な粉本を失ってしまいました。ピンチデス。
で、狩野探幽は粉本をとりかえすべく
古画の模写や鑑定を積極的に行い、縮図として描きためた。
また、写生も草花・鳥類・風景とさまざまなジャンルに触手を伸ばして描いた。
それは膨大な量で、美術史的に注目されはじめているようです。
その写生の1枚が有名なこれ。
獺図
かわいいですね〜、しかもよく描けていますね〜。
そしてそんな探幽ですから、絵の内容も多岐にわたったようです。
源氏物語から、、
賢木・澪標図屏風
いにしえの三十六歌仙を描いたものから、、
柿本人麻呂像
水墨画も極めています。
叭々(はは)鳥・小禽図屏風
富士山図屏風
薄味、、、粋、、、
1662年狩野探幽は画家としての最高位である法印を与えられました。
by hamaremix
| 2016-01-24 23:00
| 日本絵画の星
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