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浜本隆司ブログ オーロラ・ドライブ

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浜本隆司のブログ

狩野内膳

狩野派は続く、、
創始者の正信〜狩野派の画風の完成・元信秀頼〜巨匠・永徳〜京狩野の祖・山楽

狩野派はその血統の繋がりが基本のようですが、
山楽のように才能のある画人は門人として受け入れ、名を継がせています。


今回の狩野内膳(ないぜん)も狩野派の血筋ではありません。
摂津伊丹の城主だったあの荒木村重の家臣の家に生まれています。
村重の子は有名は絵師・岩佐又兵衛ですが、その家臣の子にも
画才のあった子が居たとは、、、、村重の絵に対する関心を感じます。

若くして狩野永徳の父・松栄に入門し、
18才で狩野派を名乗っていたようです。
豊臣秀吉に認められたことが、大きな仕事に結びつきます。



日本絵画の星 10 狩野内膳(1570-1616/桃山~江戸初期時代)

狩野内膳は2つの大きな名作で知られています。
それは「南蛮屏風」「豊国祭礼図屏風(ほうこくさいれいずびょうぶ)」です。

「南蛮屏風」
狩野内膳は秀吉の朝鮮出兵の為のお城、
肥前名護屋城の障壁画の制作を依頼されます。
その時に長崎を訪れています。
フランシスコ・ザビエルが日本に来て以来、
ポルトガル人やスペイン人とキリスト教を通して南蛮文化が少しずつ
日本に知られていきますが、
その文化の交流点は長崎でした。

ここで実際に自分の目で長崎における異国人の風俗を観察したことが、
この絵のリアリティーに繋がったのであろうとされています。

「南蛮屏風」
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「南蛮屏風」狩野内膳 16世紀末〜17世紀初め

2016年5月 「その名は鶴亭」という鶴亭を本格的に紹介した神戸市立博物館の展覧会の
併設特別展「南蛮文化と地図」の展示でこれを見ました。人々の意匠の多様さと一糸乱れぬ
筆遣いに息を呑みました。


この時代にこのような南蛮人と南蛮文化をテーマに描かれた「南蛮屏風」
が沢山制作されていて、
現在も70作くらい残されているそうです。
しかし、ほとんど作家名が記されていなくて、
この内膳のものにはしっかり名が書かれていたということです。
またその絵としての出来栄えも群を抜いているらしいです。
(すいません、ここ勉強不足なんです。汗)


信長〜秀吉はキリスト教を認めていたのですが、
家康は追放の政策をとったので、
南蛮屏風はこの時代だけに描かれたものです。
その点で風俗史的な観点からも興味ある対象となっているとは思いますが、
日本絵画の歴史の流れで見ても、
やはり異彩の感があり、面白いです。

南蛮船がリアルに描かれているだけで、ストレンジです。
南蛮ファッションと着物のツーショットも変です。

南蛮屏風は大げさに言えば、
西洋文明が初めて日本にもたらされた時の、
異文化交流の衝撃の記録であり、
また交流による化学反応がどのようなものだったかを
視覚体験として知ることのできるものなのです。


この絵は「神戸市立博物館」に収蔵されていますよ。重文。



さて、内膳のもうひとつの作品は「豊国祭礼図屏風」です。


秀吉の7回忌にあたる慶長9年(1604)の8月(旧暦)、
豊国神社では8日間にわたって盛大な臨時大祭礼が催されました。
その様子を豊臣秀頼の命を受けた家臣・片桐且元が、
豊臣家のお抱え絵師・狩野内膳に描かせたのがこの屏風です。
屏風は祭礼から2年後、慶長11年に神社に奉納されました。

「豊国祭礼図屏風」といえば、岩佐又兵衛作と伝えられる同じ名前の作品が
徳川美術館(愛知県)に所蔵されていますが、
それよりもこれは前の作品となります。



その右隻
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「豊国祭礼図屏風」右隻

当時の広大な豊国神社を中心に、8月14日(旧暦)に行われた祭礼の様子が描かれています。
画面上部にあるのが当時の豊国神社の建物。画面の右側には三十三間堂の建物も見えます。
当時、神社は現在秀吉のお墓「豊国廟」がある阿弥陀ヶ峯の中腹に巨大な敷地に建てられていた
ということです。

画面手前は大和大路、門の辺りが東大路と七条通の交差点付近にあたるとのこと。

門の前に設けられた舞台では秀吉に奉納する「新作能」が舞われ、
周りの客席から豊臣家をはじめとした大名や公家などの人々が見物しています。
秀吉は大のお能ファンだったといいますから、その趣味も反映しているのでしょう。


築地塀を挟んで手前には、馬に乗った人々の行列が左端からずっと続いています。
これは「神官馬揃え」といい、着飾った神官たち200名が、
それぞれ諸大名から提供された馬に乗って建仁寺から豊国神社までを行進したのだとか。
「馬揃え」といえば織田信長が京都で行ったものが特に豪華なものとして知られていますが、
この祭礼の時の馬揃えはそれを凌駕するほどの規模だったといいます。

因みに、行列が神社の敷地へ入っていくときに通っている門。
実はこれ、現在の東寺の南大門。
元々は方広寺の西門だったのですが、後に東寺に移築されたのだそうです。


まぁ、この秀吉を偲ぶお祭りのスケールの大きさと賑わい、
当時のことをそのまま描いていないにしても、
作者の内膳のこころのイメージはこのようにとっても晴れがましいものだったのでしょう。

その後、大坂の陣で豊臣は滅びてしまいますが、、
豊臣家最後の栄華だったのでしょう?かね。


その左隻(部分)

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右隻の翌日、8月15日(旧暦)に行われた祭礼の様子が描かれています。
中心にどん、と構えるのは巨大な方広寺の大仏殿(平安の大仏があったんです。)。
ちょうど、現在豊国神社が建っている位置です。(門の辺りが現在神社の鳥居がある位置)
画面左上の方には清水寺が見えます。清水寺名物の舞台や、
「音羽の滝」もきちんと描かれています。

大仏殿の前では、幾重にも輪になって踊る人々の姿が目をひきます。
彼らは主に京都の上京・下京に住んでいた町衆たち。この踊りは「風流踊り」といい、
大きな「風流傘」と呼ばれる飾りを押し立てて、それを中心に花笠を被った人々が
エネルギッシュに乱舞するその様子は、まさに祭のクライマックスを感じさせます。
ちょうど祭礼の前の年に出雲阿国の舞が京都では評判になっていたようで、
恐らく「かぶき者」の影響もあるのでしょう。
人々の衣装はどれも派手で鮮やかです。


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大仏殿の門の周辺には、桟敷席で見物している人々も見られます。
(門の正面で傘を差しかけてもらっている尼さんは北政所。秀吉の妻、お寧です)

この桟敷席の背景部分には屏風が立てかけられているのですが、
実はこの中には長谷川等伯の作品と思われる絵が描きこまれているのだそうです。
この作品が描かれた当時は、ちょうど画檀の覇権を巡って狩野派と長谷川派が
しのぎを削っていた時期。
狩野派の絵師がライバル長谷川派の絵が描かれている。
相手の作品を否定するどころか逆に肯定して取り入れてしまっているというのは、
非常に面白いポイントではないでしょうか。


他にも注目しておきたいのは、人々の服装。
おそろいの衣装をまとった踊り手たちに混じって、
よく見るとヨーロッパ風の格好をしている人もいます。
要するに南蛮人の仮装、所謂コスプレです。
また、打ち出の小槌のようなものを持った人もいます。これは七福神でしょうか。
今でこそよく知られるようになった「コスプレ」ですが、
もうこの時代に既にあったのですね。

そして極めつけは「たけのこ」。なんとたけのこの被り物をした人がいるのです。
一体どうしてこの人はこんな格好をしてしまったのでしょうか?
何か特別な理由でもあったのでしょうか?筍の季節のお祭でもないのに…
「本当に?」と思う方もいらっしゃるかと思いますが、ちゃんと絵の中にいますので、
ご覧になる際は是非、探してみて下さい。

この投稿の引用は現在の豊国神社のHPより

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すごい盛り上がりですね〜〜〜、
ダイダイ大宴会。

拡大してみると衣服の細部や顔つきまでぎっしり描かれているのがよくわかります。

たけのこ男とは、、、はは、

単に目立ちたがり屋さんなのでは?
いつの時代にも、笑わせてくれる人柄の人がいるようで、、、、


もっと、他の細部の見たなりませんか??

私はなりました。



この絵は基本的には、
狩野永徳の「洛中洛外図屏風」の影響にあるものですが、、
制作期間2年はうなずけますね。

さてこの時代を紹介している面白いサイトに出会いました。

参考にどうぞ。

戦国時代の南蛮文化紹介
http://hercules.s281.xrea.com/sengokunanbanbunkafreme3.htm
by hamaremix | 2015-11-26 04:29 | 日本絵画の星 | Comments(0)