雪舟
雪舟が今、中国で熱い視線をで還りみられているそうです。
中国は共産党が国を建てて以来、
宗教、文化的には 社会主義的リアリズムを強要して、
過去の中国が培い育ててきた、宗教、文化をなまっちょろいものだとして
否定し、時にはその文化財をぶっ壊してきました。
(オオナタの解釈ですみません。)
中国の歴史のなかでもっとも
漢民族の文化が成熟したのは南宋時代の文化だとという考えてる文化人が
現在の中国に居て、
南宋の文化を見直す動きがあるそうです。
そして、日本の室町時代に中国/明に渡り
南宋の水墨画を学び、習得した雪舟の作品が、
現在、中国でとっても評価されているということです。
雪舟71歳の自画像です。
当時としてはとても長生きではないですかね。
冠っているのは烏紗帽(うさぼう)というもので、中国の僧がつける頭巾です。
若い時に明唐船で明に渡った雪舟は、明での体験を
長年自身の誇りに思っていたようですね。
雪舟七十一歳像/模本
日本絵画の星 02 雪舟等楊(室町時代)
「雪」に「舟」、とっても旅情豊かな名前の絵師「雪舟」。
さて雪舟で思いだす絵は何ですか?
おや、、、
以外と出てこないんじゃないですか?
でも、彼の作品で国宝は6点もあるので、
あまたいる画家の中でもその評価は群を抜いていると言われてます。
でも、作品がとっても渋いのです。
モノクロームの山水画が彼の作品の真骨頂なので、
この豪華な装飾過多の時代にあっては、
その作品は影のように見えてしまうのかもしれません。
で、一番有名なのが、この天橋立の絵でしょう。
「天橋立図」国宝
これは紙に水墨淡彩です、紙を継いだ跡が明らかに見えます。
それも含めて色んな点から、
この絵は下絵ではないかと思われているようです。
(一番の理由は落款がないということです。)
でもサイズは縦89㎝横169千㎝で、100号のPという
割合大きいです。
実物大の下絵なのかもしれませんね。
なお天の橋立てを有名にしたのはこの絵かもしれないのです。
この絵は今で言う、グーグルアース的な見方で描かれています。
こんな視点で描こうとしてもなかなか描けるものではないです。
たぶんその地を何度も訪れて、
ひとつひとつの場所に行って、細かく近辺を観察して、
最後に見晴らしのいい高台、山の上からの視点で描いたにちがいないです。
こんなスケールの大きい絵は北斎ですら、ないですね。
雪舟はこの絵を、
もはや人間の視点を超えて「宇宙的」な視点で描いています。
雪舟は旅をしながら立ち寄った名所を水墨画に描いています。
その代表作がこの「天橋立図」です。
雪舟最晩年の傑作ですが、
この時代外の風景をここまで克明に写し取ったものはなく、
その意味でもレキシ的意味も高いそうです。
雪舟の絵で、教科書や日本美術史のなかで取り上げられるのは、
これです。
「秋冬山水図」
特に右の「冬」を描いた絵をよく見て下さい。
真ん中に
なんだか、岩なのか、なんなのかがよくわからない、
不自然といえば不自然ですが、
画面を割ってしまうような絵が入っています。
これはよく話題になる話です、、、、。
雪舟は山水画の世界に革命をもたらしたと絵師と考えられています。
が、私たちがイメージする山水画よりも、
かなりごつごつとした絵ではないでしょうかね。
しかし、
イメージとおりの絵もあります。
「破墨山水図」
渋いです、渋すぎです。
でも、私たちの山水図のイメージとおりの絵です。
画面中心をを縦に貫く構成が力強い。
運筆は迷いがなく、スピード感あり、
時に荒い筆さばきが気になったりするカ所もあります。
しかし、それは、なによりもライブ感を重視したことによるものでしょう。
後年、特に江戸時代には雪舟の絵を模写して、
そのまま、雪舟の名前を書いたものが沢山あって、
「雪舟と書かれたものに偽物が多い」のも
彼の特徴のひとつだそうです。笑
もう一枚衝撃の絵を、、、
達磨大師が描かれています。
「達磨大師二祖・慧可」1496年 国宝
これ
描かれている二人の人物は、少林寺において面壁座禅中の達磨(だるま)大師[右]と、
その達磨に弟子入りを乞う僧侶慧可(えか)です。
*この時まだ慧可は神光と名乗っている。
慧可は再三、達磨大師に弟子入りを請いますが、全く相手にされません。
そこで彼は決意のほどを示すべく、
己の左腕を切り落として達磨に捧げ、
ようやく入門を許されることになるのです。
*よく見ると慧可の左腕が、、、、
なんという絵でしょうか!!
雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) - 永正3年8月8日(諸説あり)(1506年))
は、室町時代に活動した水墨画家・禅僧。
「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。
備中に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移る。
その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。
現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、
花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、
各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立。
後の日本画壇へ与えた影響は大きい。
(ウィキ)
中国は共産党が国を建てて以来、
宗教、文化的には 社会主義的リアリズムを強要して、
過去の中国が培い育ててきた、宗教、文化をなまっちょろいものだとして
否定し、時にはその文化財をぶっ壊してきました。
(オオナタの解釈ですみません。)
中国の歴史のなかでもっとも
漢民族の文化が成熟したのは南宋時代の文化だとという考えてる文化人が
現在の中国に居て、
南宋の文化を見直す動きがあるそうです。
そして、日本の室町時代に中国/明に渡り
南宋の水墨画を学び、習得した雪舟の作品が、
現在、中国でとっても評価されているということです。
雪舟71歳の自画像です。
当時としてはとても長生きではないですかね。
冠っているのは烏紗帽(うさぼう)というもので、中国の僧がつける頭巾です。
若い時に明唐船で明に渡った雪舟は、明での体験を
長年自身の誇りに思っていたようですね。
雪舟七十一歳像/模本
日本絵画の星 02 雪舟等楊(室町時代)
「雪」に「舟」、とっても旅情豊かな名前の絵師「雪舟」。
さて雪舟で思いだす絵は何ですか?
おや、、、
以外と出てこないんじゃないですか?
でも、彼の作品で国宝は6点もあるので、
あまたいる画家の中でもその評価は群を抜いていると言われてます。
でも、作品がとっても渋いのです。
モノクロームの山水画が彼の作品の真骨頂なので、
この豪華な装飾過多の時代にあっては、
その作品は影のように見えてしまうのかもしれません。
で、一番有名なのが、この天橋立の絵でしょう。
「天橋立図」国宝
これは紙に水墨淡彩です、紙を継いだ跡が明らかに見えます。
それも含めて色んな点から、
この絵は下絵ではないかと思われているようです。
(一番の理由は落款がないということです。)
でもサイズは縦89㎝横169千㎝で、100号のPという
割合大きいです。
実物大の下絵なのかもしれませんね。
なお天の橋立てを有名にしたのはこの絵かもしれないのです。
この絵は今で言う、グーグルアース的な見方で描かれています。
こんな視点で描こうとしてもなかなか描けるものではないです。
たぶんその地を何度も訪れて、
ひとつひとつの場所に行って、細かく近辺を観察して、
最後に見晴らしのいい高台、山の上からの視点で描いたにちがいないです。
こんなスケールの大きい絵は北斎ですら、ないですね。
雪舟はこの絵を、
もはや人間の視点を超えて「宇宙的」な視点で描いています。
雪舟は旅をしながら立ち寄った名所を水墨画に描いています。
その代表作がこの「天橋立図」です。
雪舟最晩年の傑作ですが、
この時代外の風景をここまで克明に写し取ったものはなく、
その意味でもレキシ的意味も高いそうです。
雪舟の絵で、教科書や日本美術史のなかで取り上げられるのは、
これです。
「秋冬山水図」
特に右の「冬」を描いた絵をよく見て下さい。
真ん中に
なんだか、岩なのか、なんなのかがよくわからない、
不自然といえば不自然ですが、
画面を割ってしまうような絵が入っています。
これはよく話題になる話です、、、、。
雪舟は山水画の世界に革命をもたらしたと絵師と考えられています。
が、私たちがイメージする山水画よりも、
かなりごつごつとした絵ではないでしょうかね。
しかし、
イメージとおりの絵もあります。
「破墨山水図」
渋いです、渋すぎです。
でも、私たちの山水図のイメージとおりの絵です。
画面中心をを縦に貫く構成が力強い。
運筆は迷いがなく、スピード感あり、
時に荒い筆さばきが気になったりするカ所もあります。
しかし、それは、なによりもライブ感を重視したことによるものでしょう。
後年、特に江戸時代には雪舟の絵を模写して、
そのまま、雪舟の名前を書いたものが沢山あって、
「雪舟と書かれたものに偽物が多い」のも
彼の特徴のひとつだそうです。笑
もう一枚衝撃の絵を、、、
達磨大師が描かれています。
「達磨大師二祖・慧可」1496年 国宝
これ
描かれている二人の人物は、少林寺において面壁座禅中の達磨(だるま)大師[右]と、
その達磨に弟子入りを乞う僧侶慧可(えか)です。
*この時まだ慧可は神光と名乗っている。
慧可は再三、達磨大師に弟子入りを請いますが、全く相手にされません。
そこで彼は決意のほどを示すべく、
己の左腕を切り落として達磨に捧げ、
ようやく入門を許されることになるのです。
*よく見ると慧可の左腕が、、、、
なんという絵でしょうか!!
雪舟(せっしゅう、応永27年(1420年) - 永正3年8月8日(諸説あり)(1506年))
は、室町時代に活動した水墨画家・禅僧。
「雪舟」は号で、諱は「等楊(とうよう)」と称した。
備中に生まれ、京都相国寺で修行した後、大内氏の庇護のもと周防に移る。
その後、遣明船に同乗して中国(明)に渡り、李在より中国の画法を学んだ。
現存する作品の大部分は中国風の水墨山水画であるが、肖像画の作例もあり、
花鳥画もよくしたと伝える。宋・元の古典や明代の浙派の画風を吸収しつつ、
各地を旅して写生に努め、中国画の直模から脱した日本独自の水墨画風を確立。
後の日本画壇へ与えた影響は大きい。
(ウィキ)
by hamaremix
| 2015-04-28 22:59
| 日本絵画の星
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